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生きるということ
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2007年03月02日    さようなら

あれから、ニューヨークでは、穏やかな日が続き、
ここ何日かは、気温も上がって、青空になった。

僕は、やはり彼女の葬儀には、呼んでもらえなかった。

彼女の両親に嫌われているので、呼んでもらえないだろうと思っていたので、
それほどショックではないが、やはり、最後にもう一度彼女を顔を見たかったと思う。

ただ、僕には、沢山の思い出があるので、今でも目を閉じれば、
色々な場面の彼女を思い浮かべる事ができる。 

だから、棺に納まった彼女の死顔を見ないほうが良かったかもしれない。。

葬儀に呼んでもらえないほどだから、当然、
彼女に指輪をつけて埋葬をしてくれるはずものなかった。

一生懸命彼女のためにデザインをしたピンクサファイアの
ピンキーリングとエンゲージリングが、一度も彼女の指に納まる事がないのは、
切ない気持ちがしたけれど、僕は、小さな箱に、
彼女に渡すはずだった二つの指輪と、思い出の品を詰めて、
綺麗にラッピングをしてリボンをかけ、彼女のことを思い出し、
少し彼女に祈りを捧げてから、その箱を、ニューヨークの海に流した。

僕は、箱が波間に沈んで行くまで、海を見つめていた。

天使のデザインの指輪。。 さようなら。。

彼女がつけたら似合ったかな?

ちょっと切ない気持ちがしたけれど、
彼女に指輪をプレゼントするのは、僕があの世に行って、
彼女と再会したときの楽しみに取っておこう。。

指輪を海に流して、僕は、ベンチに腰を下ろし、やめていた煙草に火をつけた。

天気が良い事もあって、バッテリーパークには、かなりの人がいた。

自由の女神を見に来た観光客。。
公園で楽しそうに自分達だけの世界に浸る恋人達。。
犬の散歩にやってきた老人。
公園で元気一杯走り回る子供達。。
僕は、そういった人々を眺めていた。 それぞれの人に、
それぞれの生活があり、それぞれ、笑ったり、
泣いたりしながら一日、一日を過ごしている。

そんな当たり前な事を考えていると、何故か、
それらの人々がとても愛おしく思えてきた。。

僕と彼女の素敵な思い出が沢山詰まった彼女のアパートも、
今月一杯で引き払う事になった。

彼女の両親から、2週間以内に荷物を処分して
鍵を返すように言われている。 今週末にでも、
アパートに行って、自分の荷物を片付けに行こう。

あそこには、二人だけの思い出が沢山ある。
とても小さくて、御世辞にも豪華とはいえないささやかな
アパートだったけれど僕は、あの部屋が大好きだった。

ポインセチアで一杯にしてしまった裏庭。
彼女と一緒に草刈りをした。
彼女が死ぬ直前に病院から外出許可を貰い、
最後にこの部屋で夕食を食べたっけ。

小さな暖炉に灯を入れて、彼女を抱きかかえ、
ずっと暖炉の灯を見つめたあの夜。

二人でふざけなが一緒に料理を作った小さなキッチン。
きっと片づけをするごとに、ここで起こった沢山の素敵な出来事をまた、
ひとつずつ思い出すのだろう。。

仕方がないことだけれども、やはり切ないな。。。



2007年03月03日  陽はまた昇る

彼女に渡すはずだった指輪を海に沈め、
僕もそろそろ気持ちの整理をしなければならないと思い始めた。

今週末には、彼女のアパートの荷物も運び出さないといけないので、
僕は、彼女と過ごしたこのアパートで、最後の思い出を作る為に、
昨日から、このアパートに泊まっている。。

まだ気持ちの整理はついていないけれども、
僕は、守らないといけない人達が、沢山いる。 その人達のために、
僕は、また歩き出し、彼らを守る為に闘い続けなければいけない。

それが、彼女の為でもあるのだと無理やり信じ込もうとしている。。

彼女が死ぬ前日の取締役会で、
レバノン人の友達の会社の新しいProjectを発表したばかりだ。

既に、彼は、一足先にヨーロッパに飛び、Projectの下準備を始めている。 
僕も、来週早々、ヨーロッパに行って、彼を助けてやらないといけない。

最年長のRobertには、二年でケリをつけると約束したが、
実は、僕は、このProjectは、一年でケリをつけようと思っている。 
一年で完結させるのは、Crazyだと思うけれども、
やってできない事はない。 チャンスは、あると思う。

逆に、みんなが考えるような安全なスケジュールで動かしていたら、
きっと後から追って来る大資本の競争相手に潰されてしまう。 
僕らのような小さい所が、生き残るには、
奇策で先手を取って、全速力で逃げ切るしかない。

だから、僕は、一年で決着をつけようと思っている。 
それが唯一の方法だと思っているから。。 
自分の命をかけるのに不足はないProjectだ。 
彼女のアイディアもたくさん入っているから。。

彼女のアイディアを証明するためにも、僕はここで負ける事はできない。

彼女の名前のついた財団も本格的に動き出した。 
経済的な事情で学校に行けない子供達に教育を施す手伝いをするのが、
この財団の目的だ。

彼女の至った結論は、”子供に一番必要なものは、教育だ。”と言う事だった。 
他の人には、他の意見もあると思うが、僕は、彼女の結論を尊重し、
彼女の遺志をついで、子供達に教育を施す手伝いをする事に全力を尽くしたい。

更正施設でのカウンセリングも再開した。 そこで、彼らの話を聞き、
彼らの痛みをともに感じる事が、僕の仕事だ。

彼女がいつも僕に言っていたのは、

”子供達に、何かを強制してもかれらは決して心を開かない。

子供達の心を開く為には、まず自分が、子供達の話を聞き、
痛みをともに感じて、子供達に愛をもって接しないと、
子供達は、再び社会とのつながりを持とうとはしない。 

まずは、自分が彼らを愛して、人から愛される事でどれだけ
彼らの気持ちが救われるのかを理解できれば、はじめて彼らは、
自分から社会とのつながりをもう一度築いてみようと思い、
人を思いやったり、愛したり、人の話を聞いてあげたり、
痛みを分かち合おうと言う気持ちが芽生えてくるはずだ。”

と言う事だった。
彼女は、誰にでも惜しみなく愛を与えた。 
そして、そうする事で、愛を与えられた人達が、
今度は、別の人達に同じように愛を与える事を望んでいた。

僕は、44歳のひねくれ者なので、本当の世界が、
そんなに簡単でないことは知っている。 でも、少なくとも彼女は、
更正施設の子供達を愛していた。 
そして、彼らをそんなに愛している人は、他にいなかった。

彼らにだって愛は必要だし、誰かに心配されていると実感する事が必要だ。 
だから、僕は、ここでも彼女の遺志を継ぐことにした。

彼女ほどは、高貴な愛を与える事はできないけれど、
僕は、僕なりに無骨な男の愛情を持って、
彼らに接してみようと思う。彼らが彼女同様僕にも心を開いてくれるように。。

来週からは、また忙しくなる。 
涙に暮れていても陽はまた昇る。
そして、僕は歩き出さないといけない。
彼女の為に、そして僕を必要としている人達のために。


  昔、彼女に”闘うあなたを見ているのが好き。”って
  言われた事があるのを思い出した。
  やっぱり、僕には、闘う事しかできないのかな?って思った。
  そうだとするなら、最後の最後に、ボロボロになるまで
  闘い続ける覚悟がついたような気がする。


  僕は僕なりにできる事をして、自分が生きている意味にしたいと思ってるんだ。


  表向きは、子供を助けるかのような行いだけど、
  本当は、自分の魂をそれで救おうとしているのだと思う。


  そう。彼女、弁護士になって人権問題とかに取り組むつもりだったの。 
  国連のフードプログラムとかクリントン財団とかで
  インターンをしてって考えていたみたい。  


  生きていたくとも生きられない人がこの世の中たくさん存在します。
  その人たちに恥じないように生きないといけないんですよね。


  コメントありがとう。 他の人にも、
  ”Toshの日記を読むのには、勇気がいる。”って言われた事があるので、
  なんとなく、わかるような気がします。
  残念な結末になっちゃったけど、彼女の為にも、僕は、
  残りの人生を、一生懸命生きないといけないなと思っています。
  辛いんだけどね。 本当は。


  この場所に立ち止まって涙に暮れていると、結局何もしてない訳だから、
  死んでいるのと変わらないなと思ったんだ。
  だから、無理してでも前を向いて歩いてみる事にしたんだ。
  歩ける所までね。


2007年03月04日   There's Only Me

今朝は、気温が13度まで上がり、空も澄み渡り、
まるで春が来たかのような美しい日になった。

彼女のアパートを今月中に引き払う事になり、
僕も仕事を再開し来週から忙しくなるので、
今週末に、アパートの荷物を整理する事にした。

沢山の素敵な思い出が詰まった、彼女のアパートだ。 
決して豪華ではないけれど、二人で懸命に生きた思い出の場所だ。

二人で笑い、泣き、語り合い、
ふざけ合い、愛し合い、、、思い出は尽きない。。

僕は、指輪を海に沈めた段階で、心の整理は、かなりついたので、
もう心が迷う事はないけれど、このアパートを出る前に、
せめて最後の週末くらいは、彼女の思い出に浸って独りでいたいと思った。

44歳の中年が、思い出に浸って、センチメンタルに涙ぐむのは、
格好悪いけれども、これが最後だから彼女には、おおめに見てもらおう。 
きっと、彼女も、”しょうがない人ね。”と言って、笑ってくれるに違いない。。

ひとつひとつ思い出のものを手に取って、チャリティーに寄付するもの、
捨ててしまうもの、自分で思い出に取っておくものに、分けないといけない。
ひとつひとつの物を手にするたびに、涙がこぼれて来る。 
このアパートには、僕一人だから、今日は、泣いても構わない。
今日と明日は、そうやって静かに時を過ごすつもりだ。 
僕一人だから。。。 There's Only Me..


  まあ、ここだけですからね。 人前でおいおい泣いているわけじゃないし。


  自分の気持ちがどうあれ、仕事の方は、僕を待ってくれないんで、
  歩き出すと決めた以上は、ちゃんと歩き出さないと、
  他の人にも迷惑をかけますからね。


  かなり片付いたよ。 前を向いて生きて行くってそういう事なんだと思う。



2007年03月05日   Dead Flowers  

土曜日に続き、日曜の朝も青空が美しかった。

気温は、土曜日よりも下がったけれど、僕は、革ジャンを羽織って
寒さに身震いをしながら、表通りのスターバックスに出かけチャイティを頼んだ。

このスターバックスにも、数え切れないほど彼女と来たものだ。 
いつも頼むものは、チャイティと決まっていたが、ここにも沢山の思い出がある。。
このスターバックスに来るのも、今日で最後だろう。 
このアパートを引き払ってしまえば、このスターバックスに来る事もないと思う。

そう考えると、なんと言う事もないスタバですら、
非常に懐かしく、名残惜しいものに思えるから、不思議だ。

昨日から荷物の整理をはじめ、かなり整理もはかどった様な気がする。
一つ一つ残された物を手にとって、色々な事を思い出し、
そのたびに手が止まり涙ぐんでしまうのだが、この作業は、
これから先、僕が、一人で歩き出す為には
通らなければならない道のような気がした。

大きな段ボール箱を3つ置き、捨てるもの、
寄付するもの取っておくものに時間をかけて分類していった。

なかなか捨てる決心がつかないので、迷ったら、
捨てる箱に入れるように心がけたが、やはり二人のものを捨てるのは、
心が千切れるような気がする。。

整理がかなり進んで、僕は、ドライフラワーの飾られた花瓶を手にして考えあぐねた。
彼女は、僕が彼女に花をあげた度に、
その何本かを残してドライフラワーにして、花瓶にさしていた。

彼女と付き合いだしてから、彼女が死ぬまで、
僕は、何十回と花束を渡したけれど、その全てを思い出に取っていた彼女の、
意外に子供っぽいところを考えると、今でも微笑んでしまう。 
そんな子供っぽいところも非常にかわいらしい女性だった。

僕は、暫く考えあぐね、結局、花瓶からドライフラワーを抜き取り、
その一本一本を手にとって、それらを集め、静かに火をつけた。 
僕と彼女の思い出が、煙になって空に消えていくような気がした。

僕は、花が燃え尽きて灰になるまで、それを見つめていた。
部屋の整理が終わったら、何もないこの部屋で、
僕は、彼女を思いながら最後の夜を過ごし、
明日の朝早く、このアパートを出て、鍵を両親宛に郵送する。

ここには、もう2度と戻ることはないだろう。
空に消えていく煙を目で追いながら、
僕は、全てのものに、“さようなら。 ありがとう。”と声をかけた。。


  前を向いて歩き続ける為には、
  やらなければいけない事だと自分に言い聞かせてやっています。


  僕は、ようやく片付けが終わり、部屋の中は、殺風景になりました。 
  今夜は、ここで最後の夜を過ごして、明日から、
  また前を向いて歩き出します。 どうもありがとう。


  そうだね。 進むべき道は、もうわかっているんだ。
  闘うべき相手もわかっている。
  吹っ切れる前は、死ぬ為に前に進もうとしたけれど、吹っ切れた今は、
  大義の為に前に進もうとしている。だから、今は、迷いはない。


   彼女に、何十回って花束を渡したから、
   兄ちゃんも、そのドライフラワーを一本ずつ手に取って、これは、あの時かな? 
   これは、あの時かな?って考えながら、一本ずつに、どうもありがとう。って言った。 
   花って、言葉を理解するって知ってた?


  そうだよ。 郵送。 郵送しろって言われたから。
  ★彼女の手紙を読んでみたい★とは思うけど、渡してくれなくても、
  今の僕は、もう大丈夫。
  これだけ沢山楽しい思い出をもらったら、今は、前を向いて闘うだけ。


  もう大丈夫。 仕事では、明日からまた鬼になる。 
  神出鬼没で暴れまくって、相手を震え上がらせるつもり。
  レバノン人の友達を含めて、下準備の連中が世界中に散らばっているんだけど、
  それを一時的全部呼び戻して、明日、全員にプランを説明して演説をする予定。
  久しぶりに男の闘争本能がわき上がって来た感じ。(笑)
  一年でケリをつけるから。



2007年03月06日  Isn't That What We Are Dying For?

今朝は、早く目を醒まし、空っぽになったアパートを見回して、
感謝の気持ちを込めてドアに鍵をかけた。

鍵を封筒に入れ、彼女の両親に郵送をした。 
これで、僕と彼女が暮らしたアパートは、僕の心の中だけに残る思い出になった。

ちょっと切ない気持ちになったが、メソメソするのは、週末までと決めていたので、
空を向いて大きく深呼吸をして気分を変え、新しい一歩を踏み出す事にした。

レバノン人の友達は、既に先週からヨーロッパに行って、
新しいプロジェクトの準備をしている。 
彼から、ヨーロッパに来るように乞われていたが、彼を助ける為に、
水曜日から、オランダとイギリスに行く事になった。

その前に、全社員を集めて、今回のプロジェクトの説明をすることになった。

僅か35人のちっぽけな会社なので、全員にプロジェクトの目的を理解してもらい
、一丸になってあたらないと、とても大きな所に太刀打ちできない。
既にレバノン人の友達を含め、複数のメンバーが、世界中に散り、
プロジェクトの下準備を始めていたが、とりあえず、一度全員に帰って来て貰い、
全員を一同に集めてミーティングを行った。

35人全員を食堂に集め、その前で、概略を僕が説明し、
その後で、細かい指示をレバノン人の友達が、出していく。

壇上に立ち、僕は、35人の同士に向かって語り始めた。

“今日から、君達は、僕と一緒に新しい冒険に旅立つ事になる。

僕は、君達が、この冒険に参加したことを誇りに思い、年を取った時に、
自分の孫達に胸をはって自慢話が出来るほどのプロジェクトだと確信している。

きっと、君の孫達は、自慢話の退屈さに居眠りをしてしまうだろう事は、確実だけれどもね。。“

本題に入る前に、皆を鼓舞して、気持ちをひとつにさせるのが、僕のスピーチの役目だ。

皆を笑わせながら、真剣にさせながら、気持ちを高めながら、、僕は、話を続けていった。

話をしながら、ふと、彼女の顔が、頭に浮かんだ。 

優しそうに、僕に向かって微笑んでいる笑顔だった。。 頷いているようにも見えた。。

きっと、僕が、また前を向いて歩き出した事を喜んでくれているのかな?とふと思った。

彼女の微笑みに後押しされて、僕は、話を続けた。

プロジェクトが非常にリスクを伴うことも説明した。 

常識外れの目標設定と、常識外れのスケジュールで進めないと、
大きな会社にやられてしまうであろう事も説明した。

会社の有り金を全てこのプロジェクトにつぎ込むので、このプロジェクトの失敗は、
即、会社の死を意味する事も説明した。

その上で、僕は、こう言って、自分のスピーチの結びにした。。

What if we could prove even small company like us can change the destiny?

What if we could prove there is something money cannot buy?

Isn't that what we are fighting for?

Isn't that what we are dying for?

“もしも僕らが、自分達の努力次第で、運命を変えられると証明できたら?

もしも僕らが、世の中には、お金以外に大事なものがある、
お金では買えないものがあると証明できたら?

その証明こそ、僕らが、闘い続ける目的ではないか?

その証明こそ、僕らが、命をかける意味があるのではないか?“

暫くは、食堂が水を打ったように静かになった。 誰も言葉を発しなかった。

その静寂を破って、一人の従業員が立ち上がった。 

大柄の黒人のプログラマーのビルだった。
ビルは、デラウェアの貧しい黒人家庭に生まれた天才プログラマーで、
僕らが彼の才能にほれ込み、口説き落としてこの会社に連れてきた男だ。

彼の兄弟は、犯罪に手を染め、現在刑務所に入っており、
彼は両親と刑務所にいる兄弟の世話をするために、
デラウェアを離れる事ができない。そこで、僕らは、
彼にデラウェアの自宅で働く事で構わないと彼に伝え、
やっとの思いで会社に参加させることが出来た。

彼は、それに非常に恩義を感じ、それ以来、誰よりも勤勉に働き、
驚くべきプログラムを量産している。

普段は、デラウェアの家で働いている彼も、
会社の一大転換期だからと言う事で、わざわざ会社までやって来ていた。

その彼が静かに立ち上がり、独特の低い声で、
”I will join the journey.”と言った。彼の言葉の後に、
次々に従業員が、立ち上がり、
それぞれに会社の方針に身を委ねる事に賛成してくれた。

35人全員の意思が固まり、僕らは、またこのチッポケなブリキの船で、
大海原に冒険に出かけることになった。

水曜日から、僕は、35人の命運をかけてヨーロッパに行く。。
僕らの旅のために。。


  今回のプロジェクトは、彼女のアイディアが沢山入っているから、
  どうしても彼女が言いそうな事をついつい僕が言っている事に気がつきまあす。


  やっぱり危ない仕事に取りかかる前には、全員に真実を告げた上で、
  それでもついて来るかどうかを聞かないと、
  従業員にも失礼だと思うので、真面目に話す事にしました。
  でも、僕らは、同じような試練を3年前にも乗り越えてるから、
  きっと皆、ついて来るだろうと思っていたけど、
  嬉しい事に、脱落者は、だれもいなかった。
  後は、最後まで諦めずに、頑張り続けるだけだと思います。


  うん、成功する。 成功しないと倒産だから。(笑)
  でも、小さい会社だから全員にちゃんと説明しないといけないと思ったんだ。


  僕は、いつも彼女と一緒だから独りじゃないし、
  全てを失っても彼女のところに帰るだけだからね。 だから怖くはありません。


2007年03月08日  雪のニューヨークを後にして

雪の降るニューヨークを後にして、ヨーロッパに向かった。

空港では、僕は、常に一人だ。 
彼女が死んでしまってから初めての本格的な仕事だが、
やはり空港で孤独を再確認するのは、切ない。

半端な仕事ではないので、やらなければいけないという
気持ちは強いのだが、一方で、どうしようもない寂しさを感じるのは、
仕方がないことなのかもしれない。

今朝、オランダのアムステルダムに移動した。 
朝、早くについたので、目覚ましついでに朝の街を散歩した。
レッドライト ディストリクトなので、夜になると歓楽街に変貌するのだが、
朝のDAMは、静かな全く別の顔を見せてくれる。

僕は、煙草を吸いながら、運河の道を歩いた。

彼女とは色々なところに出かけたが、アムステルダムには、くることがなかった。
昔、僕は、ここに住んでいた事があったので、彼女を連れてくると約束をしたが、
その約束が果たされる事がなかった。

今回は、彼女は、僕について来ているのかな?と思い、
あたりを見回したが、彼女の気配を感じる事はできなかった。

昼過ぎから、本格的な仕事が始まる。 ここで先手を取れないと後がない。 

気持ちは、落ち着いている。 ここで慌ててもしょうがない。
もう、やるべき事はやったのだから、後は、運を天に任せて、
正々堂々と事に当たるしかない。

勝つにしろ負けるにしろ悔いがないように思う存分闘いたい。ただそれだけだ。。


  やっぱり生きたくても生きられなかった彼女のことを思うと、
  僕は、残された日々を毎日全力であたりたいと思っています。



2007年03月09日  コミットメント  自信 僕はひとりじゃない

アムステルダムについて午前中は、気持ちを静めるために、
街を散歩したりしてゆっくりと時間を過ごし、昼過ぎから第一回目の交渉を行った。

相手も必死なので、激しい応酬があったが、
僕は、あくまでも強気に、かつ相手に敬意をもって自分のポジションを堅持した。

長い時間の会議になった。

交渉相手が、自分達で話し合う時間を要求した。 
僕は、それに応じて、彼らに時間を与えた。 
相手方が、会議室から退席していき、僕は、会議室に独り残された。

僕は、コーヒーを片手に高層ビルから、アムステルダムの街並みを見渡した。 
有名な話だが、オランダの沢山の土地は、海面よりも低い。 
のどかな田園風景の先には、民家の屋根よりも高い堤防がはりめぐされ、
その先には、濃紺の北海の海が広がっていた。。

美しい景色だった。。

彼女とこの場所を訪れ、この景色を見せてあげたかったなとふと思った。

会議室の中は、相変わらず、僕一人だったので、椅子に腰を下ろし、
テーブルに足をのせ、暫く外の景色を見つめ続けた。

コーヒーを片手に、ふと、カバンの中から彼女の写真を取り出して、
僕は、彼女に話を始めた。 別に取り留めのない話だが、
僕は、彼女の写真に語り続けた。

何となく彼女が近くにいるような感じがした。。

彼女のブロンドの髪の毛が、僕の肩に触れているような気がした。 
そんな感覚に、僕の気持ちは、和まされ、癒された。 
彼女のおかげで、まだまだ強気で闘い続けられる気がした。。

交渉相手が、会議室に戻ってきて、また激しいやり取りが延々と続いた。

相手方もかなり疲れてきたようで、相手方の代表が、
僕に真顔で、”なぜ、そんなに自分のプランに自信を持っているんだ?”と聞いてきた。

僕は、静かに微笑んで、
★”自分に自信がなければ、ここにはいない。 
やる以上は、最後までプランをやり遂げる事に全力を尽くし真剣になるのは、
当然の事だ。 自信を持たなければ、できることもできない。”★と答えた。。。

相手方は、半ば呆れていたが、僕にとって、コミットメントとは、そう言う事だ。。
僕は、一人ではない。。


  ありがとう。 やっぱり生きたくても生きられなかった彼女のことを考えると、
  最後の最後まで諦める事はできないなと思ったんだ。 
  だから、僕は、最後まで諦めない。 絶対できると思って頑張らないとね。


  自分に自信を持つって大事だよね。
  だって、自分の夢をかなえてくれるのは、自分しかいないからね。



2007年03月10日  倫敦

アムステルダムでは、できる限り強気で交渉をした。 
押せる限りは押したので、相手に必要以上のプレッシャーを与えないために、
いったん、お互い持ち帰って考えることにした。

これはあくまでもビジネスであって戦争ではない。 
今は、テーブルの反対側に座っている人間でも、これが終われば、
仕事仲間になるかもしれないし、いつどこでまためぐり合うかもわからない。

だから、相手と立場が異なろうと、ビジネス上の壮絶な駆け引きをしていようと、
相手を人間として尊重し、節度を思って、思いはからないといけない。

だから、僕は、緊迫した長い一日の最後に、相手に敬意を表し、
結論を急がず、お互い持ち帰ることを提案し、握手をしてその場を後にした。

もっと押し込むことはできたと思うが、こちらも失敗できない長い道のりだ。 
早急にことを進めようとして相手を怖がらせてしまったら、意味がない。

僕は、気持ちを入れ替え、週末はロンドンで過ごすことにした。 
ロンドンでは、近々オフィスを出すことになっているので、オフィス探しと、
従業員の面接もやらないといけない。

ロンドンには、彼女と来たことがある。

彼女は、僕と出会う何年も前に、ロンドンに半年ほど住んでいたことがある。 
彼女にとっては、ロンドンは、思い出の街だった。

彼女とロンドンに来るときには、いつも彼女のお気に入りの
St Martin's Lane Hotelに泊まったものだ。 
70年代を思い出させるモダンなつくりで、それぞれの部屋が
白を基調にしたパステルカラーで染められている。 
白にライムグリーンの部屋が、彼女のお気に入りの部屋だった。。

St.Martin'sは、バッキンガム宮殿に近いので、よく、
バッキンガム宮殿に散歩に出かけたり、衛兵の交代の儀式なんかを見たものだ。

僕は、今回ロンドンに来て、久しぶりにSt.Martin'sに泊ってみた。
 偶然、また白とライムグリーンの部屋だった。

鍵を開けると見慣れた風景が、僕の目の中に入った。 
僕は、部屋の中をゆっくりと歩き回り、調度品に手を触れてみた。。
まるで、彼女のぬくもりをそこに探すように。。

しばらく部屋でゆっくりとし、大きなため息をひとつついて、
僕は、ロンドンの街に出て行った。

週末ではあるが、今日は、ここで仕事関係のディナーがある。
タクシーを拾い、レストランまで行く道すがら、
外の景色を眺めながら、無意識に彼女を探している僕がいた。。



2007年03月14日  Seasons

彼女が死んでから、怒濤のように色々な事が押し寄せて来た。

彼女に別れを告げ、思い出を海に沈め、突然の雪に追い立てられるように、
ヨーロッパに出かけ、今まで以上に過酷な仕事に関わり始めた。

週末は、気分転換の為に、二人の思い出の場所のロンドンに出かけた。
思い出のホテルに泊まり、偶然、彼女が好きだった部屋に案内された。

流石に、彼女と泊まった部屋に案内された時には、
僕も参ってしまい、独りになった後、暫く涙が止まらなかった。。

なぜ、こんな苦難を背負わないといけないのだろうか? 
なぜ、こんな思いをして、後悔をしながら、生きて行かなければならないのだろうか?

外では、僕が守らないといけない人達の為に、
どこまでもやせ我慢をして、どこまでも突っ張り続けて、
闘い続けているが、独りの時間が来ると、どうしても気持が挫けてしまう。

ロンドンでも、幾つか仕事や、仕事関係の食事があったので、
週末とはいえ、遅くまで付き合いがあり、遅くに独りで、
ホテルの部屋の鍵を開けた時に、どうしようもない寂しさ、
悲しさに襲われてしまう。 ただどうしようもなく、
ベッドの上に大の字になり、声を出して泣いてしまう。。

夜中で恥ずかしいから、枕を顔の上にのせ、声を殺して泣いた。。

でも次の日には、また何もなかったように、外に出て、
熾烈な駆け引きを展開しなければいけない。。 
自分の名誉と彼女の名誉と、僕を信じてついて来る人達を守る為に。。

ヨーロッパで2ラウンド程仕事をこなして、
昨日の夜中の飛行機でニューヨークに帰って来た。 
空港にとめておいた自分の車に乗り、僕は車の窓を全開に開け、
真夜中過ぎのターンパイクを独り、マンハッタンを目指して車を走らせた。

また、意味もなく、涙が込み上げて来て止まらなかった。 
気持の整理はとっくの昔にできているのに、
闘う目標もとっくに定めてあるのに、やはり、
孤独になった瞬間に、色々な気持が凝縮されて僕を襲って来るようだ。

僕は、車の幌をおろして、窓をおろし、風を全面に受けながら、
車を走らせた。 そうしないと、涙で前が見えないから。。

今週は、ニューヨークで仕事をした後、来週は、
西海岸によってから久しぶりに日本に行く。

兎に角6月までに結果を出さないと。僕には、あと2ヶ月しかない。。



2007年03月15日  春の訪れ

僕が、ニューヨークに帰ってきてから、暖かい日が続いている。

特に今日は、本当に春が来たかのように、
ポカポカと暖かい一日だった。暖かい日差しに誘われて、
昼前に僕は、仕事場を抜け出し、ビルの外に出た。

ちょうど昼時ということもあり、通りには、昼食を買い求める人々が、
街角のホットドックスタンドに列をなしたり、
レストランの前で売られている弁当を買うために並んだりしていた。 
気の早い連中は、レストランの外に並べられた席に腰を下ろして、
オープンカフェで日差しを楽しみながら食事をしていたりしていた。

僕は、そういった人たちを眺めながら、ビルの周りを、一人散歩した。

Park Avenueに出ると、教会の階段に、思い思いに腰を下ろし、
日光浴をしたり、弁当を食べている人たちに出くわした。

そういえば、僕も彼女と良く、ここで待ち合わせをして、
一緒にお弁当を食べたり、ただ単に暖かい日の光にあたったりした事を思い出した。。

僕は、彼女と良く座った、その教会の階段に腰を下ろして、
太陽の光を浴びながら、周りの人や、
通りを行きかう人々を眺めて時間をすごした。

となりに寄り添う彼女がいないと言う点を除けば、
全てが、以前のままのような気がした。

僕は、仕事の都合で、26日から数日間だけ日本に行かなければならなくなった。
桜には、まだ早いのかな?と一人考え事をした。

ニューヨークにも桜はあるけれど、やはり日本の桜は、
格別だ。春が近くなると、日本の桜が見たくなるのは、
やはり日本人としてはしょうがないことなのかもしれない。

彼女が病気になる前に、彼女と色々旅行の話をしていたが、
今年の春には、二人で日本に行って、吉野の桜を見る予定だった。

彼女は、桜の花が好きだが、前に、吉野山の桜のビデオを彼女に見せたら、
あまりの凛とした美しさに彼女は、圧倒され、ただただ涙を流した。 
そして、彼女は、そこに自分も自分の足で立ってみたいと言い出した。

僕は、彼女を抱き寄せながら、彼女に微笑んで、
今度の春に彼女を吉野に連れて行くと約束した。。

あれから一年たち、彼女は、桜を待つことなく、逝ってしまった。。

彼女に、吉野の豪快にして、儚く、美しくも哀しい本物の桜を見せてあげたかった。

ニューヨークの教会で腰を下ろして、日に当たりながら、
僕は、吉野の桜のことを、彼女のことを、ぼうっと考えていた。。。 



2007年03月16日  The Space Between Us

ニューヨークは、今日から天気も下り坂になる。

昨日は、20度近くまで気温が上がったが、
明日は、最高気温が4度近くまで落ち、午後には、雪になるらしい。

雪は、先週降ったもので最後だと思っていたが、自然は、気紛れだ。。

僕は、今日もProjectの立ち上げのために奔走をした。 
一年でケリをつけるためには、半年で目鼻をつけなければならず、
半年で目鼻をつけるためには、2ヶ月で最初の成果を出さないとならない。

だから僕には、2ヶ月しか時間がない。 2ヶ月と言えば、
時間があるように聞こえるが、実働日数は、恐らく6-7週間だろうから、
分刻みで動かさないと、色々なところに歪が出てきてしまう。

レバノン人の友達も含め35人は、全員僕を信じているので、
士気は高い。 僕も自信を持ってはいるけれど、
綱渡りであることにはかわりないので、内心は、
肝が縮むような思いで毎日を送っている。 しかし、それを外に見せることは、
決してしない。指揮官は、最後の最後まで
自信を持って悠然と構えていなければならない。

その合間に、彼女の財団の仕事をこなし、
更正施設のカウンセリングにも時間を費やしている。どんなに忙しくても、
これは僕と彼女との約束だから、最後までやりとおしたいと思っている。

今日も仕事の合間をみつけて更正施設に出かけ、子供のカウンセリングを行った。

そんな中で、カウンセリングをしていた子供が、
カウンセリング中に突然彼女のことを聞いた。 その子供は、
家庭環境が原因で犯罪を犯した子供で、それ以来、社会に心を閉ざしている。

だからその子が自分から何かを質問すると言う事に僕は非常に驚いた。

そしてなんて答えをしたら良いのか、考えてしまった。

考えた結果、正直に事実を伝えるべきだと思い、僕は、その子に、
彼女は病気と最後まで闘い続け、力尽き死んだことを伝えた。

そして、最後の最後まで、闘い続け、人を愛し続けた事を伝えた。

その子供は、びっくりした表情でそれを聞き、そして涙を流し始めた。 
その子供が始めて僕に見せた憎しみ以外の感情だった。。

彼女の愛は、沢山の子供たちにも惜しみなく与えられ、
それは子供たちにもちゃんと届いていたようで、
その子供が僕の前で始めて流す涙を見ながら、彼女の偉大さを改めて思い知らされた。

カウンセリングが終わり、僕は、施設を出た。 

僕は、低い空を見上げ、彼女を想った。そして、
彼女に祈りをささげ、彼女への永遠の愛を誓った。

僕が望んで入っていった新しい冒険の道だけれども、
その険しさに押しつぶされることなく、人間としての心の機微を感じ続け、
敬虔に謙虚に生きていけるのは、全て彼女のおかげだ。。

とかく派手な仕事をすると、自分が大きくなったかのように錯覚をし、
不遜になる人が沢山いる。 

昔は、僕もそんな一人だったと思う。 

しかし、彼女の遺志を引き継いだことで、僕は、常に彼女の戒めを守り、
自分が生かされている理由を問い続け、人の為に尽くし、
人を愛する人間の本質を失わない灯火を彼女から貰ったと思う。

僕は、その彼女の灯火に導かれて、毎日歩き続ける。 
僕が、倒れ、呼吸を止めるまで。。

どこまで歩き続けるのかは、わからない。。 
どこに向かっているのかもわからない。。

ただ彼女が残した灯火を頼りに、彼女を信じて歩き続ける。

そう考えると、どんなに辛くとも自信を持って歩いていける気がする。。

まだ彼女の死を乗り越えたわけではないので、哀しいし、
心は乱れているけれど、でも、彼女の残した灯火を持って
歩いていかなければいけないことだけは、わかっている。。


  天使がいかに子供たちの心に染み入るカウンセラーだったか知り、
  涙が流れました。 人間不信に陥り、犯罪に手を染めた子供の固い殻を貫いて、
  その心に人としての自然な情を呼び起こせたのですから。
  そして、Tоshさんが、その偉大な意思を受け継いで、
  子供の心へ直接働きかけるカウンセリングが出来た事も感動です。



  本当に憎しみ以外の感情を見せたことのない子供だったから、
  さめざめと泣かれたときには、びっくりしました。
  それで、やっぱり心って通じてるんだなって思った。


  彼女のことを思い続けながら、Toshさんは前進しているのだなと思います。
  彼女が残してくれた事をもっとたくさんの人に伝えてあげてほしいです。
  その話を聞いた人は、幸せになれるから。
  少なくとも私はとても温かい気持ちになれました!



2007年03月19日  天は、自ら助けるものを助く。

土曜日は、ニューヨークの街全体が、少し飲みすぎたようで、
日曜の朝は、いつもより町が静かな気がした。

僕は、朝早くに家を出て、川辺を少し歩いてみた。
朝の光を浴びながら、少し大またで、川辺をゆっくりと歩いた。
深呼吸をすると、冷たい澄んだ空気が、
肺の奥までしみこむようでなんとも気持ちが良かった。

ヨーロッパでの序盤戦を終え、仕事は、次のフェーズに向かおうとしている。 
兎に角、序盤戦で目に見える成果をあげて皆の肝を抜いて、
一気に走り去る以外、僕らに勝ち目はない。

その目に見える成果が、僕は、今、のどから手が出るほど欲しい。
最終的な成果は、ヨーロッパでの動かしている仕事だが、
そのドミノを倒すために、色々な場所で小さいドミノを仕掛けている。
そのドミノのひとつが倒れれば、事は、動き出す。

兎に角、僕は、今、そのドミノを倒さなければならない。。

ヨーロッパでの仕事が、予想よりちょっと時間がかかりそうなので、
それは、暫くレバノン人の友達に任せて、僕は、その間に、西海岸と、
日本に行き、他のドミノを倒しに行くことにした。

明日の夜の飛行機でカリフォルニアに飛び、
そこで仕事をこなしてから、週末に向けて日本に行く。 
日本にいるのは、2日ほどで、その後、アメリカにとんぼ返りして
四月には、ヨーロッパ、日本、そしてインドを回る。

小さなところが大きなところに勝つためには、スピードしかない。 
人より早く動く。。 それしかない。。

同業者は、良く冗談で、僕は、実際一人ではなく、
3人の人間が僕の役を演じているに違いないと言って笑う。 
常識はずれのスケジュールで動いて、色々な場所に出没するからだ。

でも、別に僕に、勝ち抜くための特別な秘策があるわけではなく、
勝ち残るためには、人が休んでいるときに、動くしかない。 
別に神は、人に特別な才能を与えてくれるわけではない。 

叶えたいと言う夢を持つこと。
夢を諦めないこと。
そして夢の実現のためには、全てを投げ出して努力すること。

当たり前だが、この3つしかないと思う。
だから、僕は、僕と彼女の夢のために、僕の命が尽きるまで諦めることなく、
その実現のためだけに、全てを捧げれば良いのだ。
気持ちを静め、気持ちを無にして、後は、行動あるのみだ。

天は、自ら助けるものを助く。
自分の信じる道を進むだけ。。
彼女も見ていてくれるだろうから。。


  僕も年を取ってきたせいか、若い人の相談を受ける機会が、
  あるんだけど、大体の悩みって、
  その3つのポイントに帰結する事が、多いんだよね。
  一番多いのが、今やっていることが、
  本当に自分がやりたいことなのかどうかがわからないって言う事だと思う。
  自分が命をかけられないものだったら、途中で諦めちゃうだろうし、
  ほかの事を我慢してまで実現しようとは、思わないものね。
  大体の人は、そこで躓く様な気がする。 本当に自分がやりたいことなのか、
  あるいは自分がやりたくなくても
  自分がやらねばならない事なのか?っていうのが、一番難しいよね。
  その点、僕は、彼女に感謝しています。


  でも大体の場合、自分が命をかけられる夢さえ見つけられれば、
  後の2つは、比較的簡単だと思うんです。
  一番難しいのは、自分の命をかけられるような夢が、
  見つけられるかどうかじゃないかと思います。



2007年03月21日   Fully Loaded and Ready to Rock

今日、一日ニューヨークで仕事をこなしてから、
今夜、カリフォルニアに向かう。

明日の朝には、カリフォルニアで大事な仕事がある。

ヨーロッパで引き続き懸命に交渉を続けているレバノン人の友達と
電話で連絡を取りあった。 なかなか状況は厳しいようだ。

ここで僕が、カリフォルニアでドミノを倒せれば、
ヨーロッパの状況も楽になる。

ビデオ会議の向こうでは、相変わらず、陽気な表情のレバノン人の友達がいる。
状況は、厳しいにもかかわらず、仕事を楽しんでしている
雰囲気があり、苦労を苦労と思わない、最高の弟分だ。

会議の最後に笑いながら、”頼むぜ、兄貴!”と言って、指を立てた。 
僕も笑いながら返事をした。

兎に角、僕らは、前に進まなければならない。何があっても。。

ニューヨークでの仕事が長引いてしまったので、
夕方の渋滞の時間にひっかかってしまい、いつもの通り車で空港まで異動していたら、
時間的に難しい状況になってしまった。

そういう場合は、通常、ミッドタウンのヘリポートから
ヘリコプターに乗って空港に行くのだが、なんとなく今日は、
船に乗って行きたい気分になり、無理を言って、ハドソン川をフェリーで渡ることにした。

今日も快晴で美しい青空が広がっていた。 
風が強く、気温は低いが、僕は、フェリーのデッキに一人で立ち、
川の風を気持ちよく受けながら、マンハッタンを見回した。

兎に角、やらなければならない。。そうしないと僕らに、次はない。。

ニューヨークの仕事場を出る前に、僕は、
仕事場に置いてある日本刀の手入れをし、新しい下着に着替えた。

昔の日本人は、決死の覚悟で挑むときには、死んだときに見苦しくならないよう、
新しい下着を身に着けたと聞く。 自分が死んだ後にも、
他人に気遣い、恥をかかないようにという昔の人の考え方だ。

僕も昔の日本人に敬意を示し、身繕いをして、新しい下着を身に着けた。 
心を無にして、死ぬ気でカリフォルニアに単身乗り込むことになる。

飛行場の格納庫につくと、いつもの整備士が、
僕に向かって、人懐っこい笑みを浮かべて手を振った。

そして、”準備万端、いつでも暴れられるぜ。
”(We are fully loaded and ready to rock!)と言って笑った。

僕も笑って親指を立てて見せた。。

I am fully loaded and ready to rock!



2007年03月22日  夜明けのキャッチボール

ニューヨークを夜の8時半に出て、
サンフランシスコの空港に夜中の12時過ぎに着いた。

そこでレンタカーを借り、ハイウェイ101号線を南に走った。
真夜中過ぎのハイウェイを走る車は少なく、
僕は、ヘッドライトをハイビームにして、漆黒の闇の中をひたすら南にむけて走った。

飛行機の中で睡眠をとったこともあり、
また明日のミーティングの事で神経が高ぶっている事もあり、
夜中の1時を回っていたが、眠気がおきなかったので、
僕は、ホテルに行かずに、そのまま仕事場に行く事にした。

誰もいない仕事場で、
朝が来るまでミーティングの作戦を練ろうと思った。

誰もいない駐車場に車を止め、事務所に入ると、
例の黒人のプログラマーのビルが、一人、コンピューターに向かって、
プログラムを書いていた。

僕が、入ってくると、少なからず彼も驚いたが、
二言、三言を話をすると、彼は、またコンピュータに向かい、
プログラムを書き始めた。

さして広くはないけれど、夜中の事務所に、
黒人のプログラマーと黄色人種の僕が、たった二人、
黙々とそれぞれの仕事を続けた。 二人とも、やっている仕事は違うけれど、
同じ夢を実現するために、こうやって夜を徹して働いている。 
それぞれの夢を実現するために。。。 
それぞれの責任を果たすために。。。

夜が明けるころに、気分転換のために、僕は、ビルを誘って、
近くの野球場でキャッチボールをする事にした。

ビルは、ただ笑って僕についてきた。 
誰もいない、まだ暗い野球場のライトに灯をともし、
ふたりだけでグラウンドでキャッチボールをした。 

彼の投げるボールをグラブで受け取るたびに、
彼の思いを感じ取る事ができたような気がした。無言のまま、
僕に頑張るようにエールを送ってくれているような気がした。。

キャッチボールを終え、事務所に戻り、
僕はシャワーを浴びて着替えをし、ミーティング場所に向かった。

厳しい攻防が一日続いた。 ただ、僕は、整然と自分の信念のもとに主張をし、
引き下がる事はなかった。 また明日、一日ミーティングを行う事になった。

ここで、50億円を調達する事ができれば、
それを梃子に、もうひとつの話を150億円でまとめる事ができる。 
そうすれば、それを梃子に、本命のヨーロッパでの仕事で
500億円調達する事も夢ではない。 と言うか、調達しなければいけない。。
今年中に700億円調達するのが、僕の計画だ。 
その全ては、僕が、カリフォルニアで最初の50億円を調達できるかどうかにかかっている。

負ける事はできない。。

一日の仕事が終わり、事務所に戻り、僕は、ビルを連れ立って、
近くのダイナーに夕飯を食べに出かけた。 
仕事の話や、家族の話を、少ししたけれど、基本的に、静かな食事になった。

僕とビルは、もう7年間も一緒に働いているし、お互い尊敬をしているので、
大事な場面で二人に言葉は、要らない。 ただ、無言で一緒にいる事で、
彼の気持ちは、僕に十分伝わってくる。 明日も頑張って、彼らのために、
なんとか、この話をまとめたいと言う意欲が、静かに沸いて来るし、
彼の無言の信頼を感じると、失敗はできないと言う緊張感も高まってくる。

気持ちが萎えそうになると、僕は、従業員とした約束を思い出す。

僕は、自分のスピーチで、彼らに次のように約束した。。

”僕は、君たちを冒険に連れて行くが、君たちに必ず成功すると約束する事はできない。
成功するように最善を尽くすけれども、失敗するかもしれない。。

だから成功を約束する事はできないけれども、代わりに、
僕は、誰よりも最初に現場に立ち、最後まで現場に残る事、そして、僕は、
君らの誰も置き去りにしない事を約束する。”と言った。

それが、人間同士の信頼だと思うから。。

ビルは、きっと、僕を信頼してくれているのだろう。

だから、夜を徹してもプログラムを書き続け、この緊張感が一杯の状況でも何も言わず、
ただ無言のサポートを僕にくれるのだろう。。

僕は、ただ、彼らの信頼と信念に感謝し、
明日こそ、なんとか結果を出そうと心に誓った。。

"I cannot promise our success.
But I can promise that I will be the first one to step in the ground
and I will be the last out to step out.
And I will leave no one behind."


  特に、部下は上司を選べないから、その人たちを尊敬して、
  その人たちと信頼関係を築けないと、
  一緒に難しい問題に立ち向かう事はできないと思う。 
  だから、やっぱり信頼って大事だよね。
  お互いを尊敬して信頼できる関係を築かないと、
  組織が、力を発揮できる事は、ないと思います。



2007年03月24日  We Got One Down

カリフォルニアでの交渉の二日目が、終わった。

二日目も一日目同様、厳しい展開だったので、
結局ミーティングが、終わったのは、翌日の未明になった。

僕は、自分の目的を達するまでは、帰る事ができなかったので、
ただただ粘り続け、結局夜を明かす事になった。

ミーティングが終わり、カリフォルニアの仕事場に戻った。 
まだ夜の開けきれない高速を、
僕は、レンタカーの幌を降ろして風を受けながら走った。

そのうち、シリコンバレー独特の禿山のあたりが、
真っ赤に染まり、太陽が顔を出し始めた。神々しい朝日だった。

禿山も朝日に染められ、ラベンダー色に燃え上がった。
茶色い禿山が、朝日に照らされると、赤ではなく、
ラベンダー色になると言う事を始めて知った。

あまりにきれいだったので、車を高速の路肩に止め、暫く、
朝日を見ながら、タバコに火をつけた。 そして、また彼女の事を思った。 
今ここに、この場所に、彼女がいてくれたら、
二人でこのラベンダー色の景色を一緒に眺める事ができたのに。。

仕事場に戻ると、プログラマーのビルが、
また夜通しプログラミングをしていたようで、彼のPCにまだ灯がともっていた。
あたりを見回したが、彼は見当たらなかった。 きっと、眠気覚ましに、
外をジョギングでもしに行ったのだろう。。

丁度、ヨーロッパは、夕方だったので、ヨーロッパで
本命の案件を頑張っているレバノン人の友達とビデオ会議をする事になった。

機材のスイッチを入れ、暫くすると、画面の向こうに、相変わらず陽気だが、
連日の仕事で少しやつれた感じの、彼が、何人かの部下と一緒に現れた。

お互いの状況確認や、ヨーロッパでの仕事の進み具合、
細かい修正や、方針の確認をした。

一通り、話が終わったところで、彼が、聞きにくそうに、
カリフォルニアでの交渉の状況を聞いた。 
やはり、ヨーロッパの状況は、厳しいのだろうと思った。。。

僕は、少し間を置いてから、彼らに、”カリフォルニアのターゲットは、
墜としたぞ。 これで、目標をひとつ達成だ。
We got one down.”と言って、彼らにウインクをした。

ビデオ会議の向こう側の彼らの顔が見る見るうちに、
明るくなり。”YES!!”と叫んでガッツポーズを見せる姿が、映し出された。 
やはりヨーロッパは、一筋縄では行かなかったのだろう。。

向こう側の騒ぎが、一段落すると、レバノン人の友達が、
満面の笑顔で、”助かったぜ。 兄貴。”と言った。

僕は、笑いながら、二本指を立てて、”後、二つ残っているからな。
”と言って、”おめでとう。”と言い、また笑った。

これで最初のドミノは、倒れた。

ビデオ会議を終え、僕は、また仕事場に戻った。 
ボブは、いつの間にか、オフィスに戻っており、
ヘッドフォンをつけ音楽を聴きながらプログラミングをしていた。

僕は、ボブの肩を叩き、”スクランブルエッグにベーコンでも
食べに行かないか?”と誘った。。。

明日は、日本だ。



2007年03月28日  最後まで日本人として人生を全うする事

日本に来てから、ノンストップで2日間、働き続け、
今、成田の空港のゲートでニューヨーク行きの飛行機の搭乗開始を待っている。

週末に日本に着き、久しぶりに成田エクスプレスに乗って、
東京に向かった。

成田空港を出ると、千葉県の田園風景が目に入った。 
日本独特の細長い田んぼ、典型的な農家、
乾いた田んぼのあぜ道を犬が走り、
その脇で焚き火に火をつけている老人の姿が目に入った。

あまりにもその日本的な風情に、涙があふれてとまらなかった。

僕は、人生の半分以上を外国で暮らしているが、やはり、僕は、
骨の髄から日本人だ。 あまりにもその懐かしい、
切ない、風景を目にし、長い間一人で外国で戦ってきたこともあり、
その懐かしさ、切なさに涙があふれてしょうがなかった。

特に、この半年は、色々な事がありすぎた。。 
そして、僕は、今、また一人、負ける事ができない闘いに挑んでいる。。

最後の最後まで、日本人として恥ずかしくないように闘い続けたい。

僕に残された時間が、それほどない事は、何となく、
感覚的にわかっているつもりだ。 彼女が逝ってしまった後、
いつ、僕が息絶えたとしても、後悔はない。 
ただ、そのときが来た時に、恥ずかしくないように、準備をしておきたい。。
ただそれだけだ。。

僕としては、彼女のアイディアが、沢山入った今のプロジェクトを成功させれば、
この世の中での義理は果たせると思っている。 
だから、僕は、残りの人生をあと12ヶ月と考えて、
それまでに全ての仕事にケリをつけるつもりで日々事にあたっている。

自分の残りの人生が、あと365日と思うと、
一日、一日をどう有効に過ごすなければいけないかと言う気持ちが、
より切実に感じられる。

自分の知力と体力の全てを使って、豪快に、潔く、
凛として、一日、一日をすごして行きたい。

彼女の再会したときに、恥ずかしくないように。。 
少しでも成長した僕を彼女に見せる事ができるように。。。

その心構えがあれば、ほとんど気合負けをする事はない。

これだけ景気が悪く、格差社会が加速し、
閉塞感のある日本でも、僕の業界では、
まだ生ぬるい風が吹いているようで、ピンと張り詰めた
空気をかもし出すような相手に、僕は、この二日間で会う事はなかった。

勝負は、最初の立会いでほとんど決まる。。 
切っ先が触れた瞬間に、この二日間、ほとんどの相手は、気合負けをする。。

ちょっと拍子抜けのするような二日間だった。。

予定通り仕事をこなし、今日、僕は、これからニューヨークに帰るところだ。。

カリフォルニアでの成功と、日本での仕事の結果を踏まえ、
僕は、二つ目のドミノを倒しにかかる。

夏までには、全てのドミノを倒すつもりだ。。

今日、ヨーロッパに残り、まだ戦っているレバノン人の友達とまたビデオ会議をした。
カリフォルニアの仕事の成功で元気がついたらしく、
厳しい状況でも活き活きとしているのがわかり、なんとも心強い。。
ニューヨークに帰り次第、僕は、二つ目のドミノに取り掛かる事になる。
兎に角、僕の全てをかけて、このドミノを倒す事に、全力を傾けたい。



2007年03月29日 ニューヨークに帰って。。

カリフォルニアからそのまま日本に移動をし、2日間働きづめに働いて、
水曜日のフライトでニューヨークに戻ってきた。

水曜日も働く事ができるように、夜7時半に成田を出る、
最後のサンパウロ便に乗った。 成田からサンパウロに行くには、
ニューヨークで乗り継ぎをするので、僕は、途中下車と言う事になる。

乗客の半分は、サンパウロに行く人たちのようだった。

成田のチェックインカウンターに立っていると、
年を取った老夫婦に見守られて、チェックインをする小さい女の子とその母親がやって来た。
その母親は、老夫婦に別れを告げ、子供の手を引いて、
セキュリティを抜けようとすると、子供が、するっと母親の手を抜けて、
”お婆ちゃんも一緒に行く!”と泣きながら、老夫婦のところに駆け戻っていくのを見た。

空港には、いつも別れと出会いの物語がある。

僕には、見送りをしてくれる人も、迎えに来てくれる人もいない。
ただ、そんな天涯孤独の僕でさえ、そうやって人々の出会いと別れを、
遠くから眺め、人の心の機微を感じる事ができる。。

早めに空港についたので、空港のおすし屋さんに立ち寄り、
30分ほど焼酎をロックで飲みながら、食事をした。 
カウンターに一人腰をおろして、だまったまま焼酎をなめた。 

勘定を済ませて、立ち上がろうとすると、おすし屋の職人さんが、
”これからどちらに行かれるのですか?”と聞いた。 
僕は、”ニューヨークに行きます。”と答えた。 
すると、その職人さんが、”向こうにお住まいですか?”と聞いたので、
”そうです。”と答えると、”そういう感じがします。”と言った。

僕は、お寿司のお礼を言って、その場を立ち去った。。 
でも、僕は、日本にいてもよそ者のように見えるようだ。。 
僕は、ニューヨークにいても、所詮外人だ。。 
僕は、やはり自分の場所を持たない、ボヘミアンと言う事なのだろうか。。

飛行機に乗り、自分の席に腰をおろして、僕はそのまま泥のように眠った。 
ここ数日寝ていなかったので、そのまま眠り続け、
目を覚ましたときには、ニューヨークに着陸15分前だった。。

税関を抜け、空港の待合に僕の運転手を見つけ、僕は彼の車に乗り込み、
ハイウェイ越しに見慣れたニューヨークの夜景をぼんやりと見つめた。

明日から、また忙しい日が続く。

仕事場に立ち寄り、ドアの隙間から部屋に投げ込まれた郵便物を整理していると、
一通、見慣れたフロリダの消印の手紙が入っていた。

封を開けると、それは彼女の妹からのカードだった。 
どうやら妹に子供が生まれたらしい。 まだ彼女が生きている頃に、
僕は、妹に子供の誕生に先立ち、プレゼントを贈ったことを思い出した。

カードには、無事、男の子が生まれた事、彼女が死んだ後も色々あったが、
何とか皆、前向きに生きようとしていること
、新しい命の誕生は、家族に久々に笑みをもたらした事などが綴られていた。

僕は、カードを読み終えると、仕事場の窓から下界を見下ろし、
彼女を想った。。 彼女に会いたい。。



2007年03月30日   みんなどうもありがとう。

マイミクのよねちゃんに誘われてMIXIを始めてから、
今日で丸一年がたった。

始めた頃は、MIXIの面白さが判らなくて、日記なんてたまにしか書かなかった。

日記をマメに書き始めたのは、やはり、
マイミクのニキさんとか、ルイちゅんとか、Petokiさんとか、Machaとか、
それまで知らなかった新しい友達ができてからだ。

友達の数も、それから知らない間に増えて、100人近くになった。

彼女との関係に色々悩んでいた頃から始まり、
自分の気持が吹っ切れた矢先に、
彼女が不治の病にかかったことがわかったのも、MIXIを初めてからだった。

その後、夏、秋、冬と彼女と一緒に季節を走り抜けた。 
色々辛い事も多くて、自分で抱えきれない事を、MIXIでは愚痴らせてもらった。 
色々嬉しい事は、素直に、たくさんの人に伝えたくて、MIXIで目一杯のろけさせてもらった。。

彼女の最後の誕生日を祝い、クリスマスを過ごし、年を越して、
僕の誕生日を祝ってもらい、、、色々な事があった。

彼女の意識がなくなり、バレンタインを過ごし、
そして彼女の為に唄を唄い続けた。 最後に、Wild Horsesを唄い、彼女を見送った。。

怒濤のような一年だった。。

でも、MIXIをやっていてよかった。 
色々な人の優しさを感じる事ができたから。

よねちゃん、僕をMIXIに呼んでくれてありがとう。。

でも、僕は、そろそろ、ここを卒業しないといけないかなって思っている。 
独りで、自分の残された道を歩いて行かないといけないかなって思っている。。
あんまり皆に甘えて、居心地が良いと、僕は、ついつい楽をしてしまうからね。

でも一年間、本当に楽しかった。 みんな、ありがとう。





2007年05月12日  独り言

精根尽き果てて、もう体を動かす事もできない。
それでも前に進まなければならない。
彼女との約束を果たさなければいけないから。
信じてついて来ている人達を守らないといけないから。
だから、まだ前を見つめて、少しでも前に進みたい。
なにがなんでも、やり遂げたい。
それが、自分が生かされている理由だと思うから。
だから、もう少しだけ。。 もう少しだけ。。



2007年05月14日  天涯孤独

昨日の夜のフライトでニューヨークを発ち、夜間飛行で、
早朝のヨーロッパの空港に着いた。
ホテルにチェックインをして、昼からの仕事に備えて、
今、気持ちを無にして、時間が来るのを待っている。。
願いは、叶う。 そう信じるだけ。

先方も必死なので、また1ダース近くの人たちがやって来るのだろう。 
それに立ち向かう僕は、今日も、たった一人。。

そして僕が手にする武器は、自分の信念だけ。
僕の信念が、曲がってしまったり、折れてしまった時に、
僕の全てが、終わる。

僕の信念が、まっすぐにある限り、僕は、
命の限りここで闘い続ける。
簡単な事だ。。 ただ、それだけの事だ。。
自分は、いつも独りだった。 自分の親との縁も薄かったし、
僕が全身全霊を込めて愛した人を、事故と病気で2度失った。

彼女が死んでから、自分には、愛に包まれると言う事は、
ないのだろうと諦める事にした。
もうこれ以上、哀しい思いは、したくないから。

天涯孤独である事を、受け入れてはいるが、
まだ何処かで、愛や温もりを求めている自分がいる事をしっている。
自分が、愛に包まれない事を知っているから、その分、
他人の幸せを祈る気持ちが強くなるのかもしれない。

僕の周りの人には、ささやかでも幸せになって愛に包まれていて欲しいと、
真剣に思う。

それは、僕と何かの縁でかかわりを持つようになった里子達であり、
会社の従業員とその家族であり、ここでかかわりを持った貴方たちであり。。

美しい五月晴れのベルギーの田園風景の中で、
僕は、ひとつ深呼吸をして、一人、気持ちを高めようとしている。。。
僕の信念が折れてしまわないように。。



2007年05月16日  ある家族

僕が、里子の世話をしているある母子家庭がある。
母親は、ジャパ行きさんのフィリピン人で、
10年ほど前に日本に不法入国し、不法就労をしてきた女性だ。

その人は、ある日本人と恋仲になり、子供を生んだが、
その直後にその日本人に子供と一緒に捨てられた。

ふとした縁で、僕は、その親子に関わる事になり、
その赤ん坊を見捨てる事ができず、その女性が、
入国管理局に出頭して正当な滞在許可を貰い、
子供のために真面目に働く事を条件に、その親子を助ける事にした。

父親を見つけ出したが、既に、父親は、別の日本人女性と結婚をしていた。
仕方がないので、子供のために、戸籍だけは整備をさせ、
住民票、保険等、子供が生活していくに必要な手続きを取った。

入国管理局は、当初、母親に対して厳しい立場で、
母親と子供を切り離し、母親を強制送還する方向でいたが、
子供と母親が、離れ離れになるのは、子供にとってよくないだろうと思い、
結果として、僕が子供の保証人になる事で、
入国管理局も滞在許可を出す事に合意をした。

あれから、10年近くの月日が、流れた。
僕は、それからその家族には、会っていないが、
たまに子供から手紙を貰う。

あの時の赤ん坊は、もう小学生になり、
元気に学校に通っているらしい。 母親も真面目な仕事につき、
朝早くからスーパーで働いているらしい。

その子供の手紙には、学校が休みの日には、
母親の職場に行って、そこで遊びながら仕事が終わるのを待っているらしい。 
働くお母さんを見て偉いと思ったと、可愛らしい字で、
誇らしげに手紙に書いてあった。

ささやかな家族が、日本の街の片隅で懸命に生きながら、
ささやかな幸せを育んでいる。

今日も僕は、ベルギーで、一日缶詰になり過酷な交渉を繰り広げた。
交渉の合間に、何度か休憩になり、独り会議室に取り残された。

窓の外の景色を眺めながら、ふと、その家族の事を思い出した。
今、僕は、ここで潰れる訳には、いかない。。
萎えてしまいそうな気持ちを必死で奮い立たせようとする時に、
ふと僕の頭に、その子供の手紙が浮かんできた。

ここで潰れるわけには、いかない。。
何となく、気力が湧いて来たような気がした。。
今度は、その家族に僕が助けられたようだ。。
気を取り直し、気合を入れなおして、僕は、また次の交渉にのぞむ事ができそうだ。。


  入国管理局の人に、”なんで、貴方がそんな事をするんですか? 
  本当は、貴方の子供なんじゃないですか?”って言われたの。
  どうしてそう言う考え方しか出来ないのかな?と思って少し哀しくなった。。
  それでその管理局の人に、”あんたの子供が、同じ目にあっても、
  僕は、きっと同じ事をするよ。”って言ってやった事を、昨日の事のように覚えています。
  児だろうが、ハーフだろうが、子供たちには、幸せに生きる権利があると思うし、
  それを助けて、真面目な国民としてはぐくむのが、日本人の義務だと思うんだけどね。。



2007年05月19日  幸せにするって約束した事ありますか?

誰かを幸せにするって約束した事ありますか?
僕は、”幸せにする。”って約束をした事がある。 
でも、今となっては、本当にその約束を守れたのかどうかは、良くわからない。

人を幸せにするってどういうことなのだろう。。
心を紛らわせるために、自分を極限まで追い詰めて、
死ぬほど忙しくしているけれど、それでも、その人の事が、
頭から離れる事は、決してない。

こんなに寂しい思いをした事は、なかった。
どうしてこんな事になってしまったのだろうと言う気持ちが、
僕の心の中いっぱいに広がっていき、胸が張り裂けそうになる。

彼女に会いたい。。
もう一度はなしをしたい。。
もう一度彼女の笑顔を見たい。。
もう一度、力いっぱい抱きしめて、彼女の温もりを感じたい。。

今朝のニューヨークは、生憎の雨模様だった。

灰色の低い空の下を雨粒を受けながら、僕は、車を走らせた。
ハドソン川沿いのハイウェイで朝のラッシュアワーに出くわした。

右手に灰色の川面を眺めながら、渋滞の中でボーっとしていると
ふと車のサイドウインドウに彼女の面影が浮かんできた。

思わず手を出して、彼女の面影に触れようとした自分がいた。

手に触れたものは、暖かい彼女の横顔ではなく、
雨に濡れた窓ガラスの冷たい触感だった。。

気が狂うほど、彼女に会いたい。。
意味もなく涙が溢れてくる。。
まだ闘いの半ばだし、ここで潰されるわけにはいかないけれど、
僕は、やっぱり君がいないと頑張れないよ。。

もうすっかり疲れてしまった。 疲れきってしまった。

ここで諦めちゃいけないのは、良く分かっているし、
決して最後まで諦めないけれど、たまに、ふと、もうここまでやったんだから、
許してくれないかな?って思う事がある。

もっと強くならなければいけない。。
君がちょっと力を貸してくれれば、どこまでも突き進んでいく事ができるのに。。
後ろの車のクラクションで我に返り、涙を拭って、車のアクセルを踏んだ。。
そんな朝だった。。



2007年05月21日  通り雨

日曜日は、土曜に比べ幾分天気もよくなり、
気温もあがり過ごしやすい日になった。

夕方、一瞬だけスコールのような大雨が降ったが、そのお陰で、
街が幾分、綺麗になったような気がした。
ニューヨークのストリートでは、いたるところで
ストリートフェスティバルが開かれていた。 トルコ人のお祭りや、
それぞれの地域でそれぞれの人々が、
自分達の文化に基づいた小さなお祭りを繰り広げていた。
僕は、散歩がてら、チャイティーを片手に、
そんなストリートフェスティバルを覗いて歩いた。
道端に露天が広げられ、BBQの煙が立ち込めていた。
雑踏の中を、僕は、一人で歩いた。。
雑踏の中で、すれ違う人たちに、彼女の面影を探している自分がいる事に気がついた。
何をしている時も、何処にいても、僕の彼女に対する思いを消し去る事はできない。
僕は、いるはずのない彼女を、雑踏で探し続けた。
その時、急にまるで天が泣き出したかのように、大粒の雨が降り出した。

僕は、雨を避けるために、建物の影に駆け込む人たちを、
雨に濡れたまま、ただボーっと眺めていた。

僕は、雨に濡れたまま、傘もささず、街を歩き続けた。。
家に帰り、熱いシャワーを浴びて、着替えをし、コーヒーをたてて、
ベランダから外を眺めた。

さっきまで号泣していた空が、うそのように明るくなり、
雲の隙間から木漏れ日が、さし始めた。 
僕は、ベランダの手すりにもたれながら、雲の隙間からさしおろす光の帯を眺めた。。
そして、また彼女を思った。。

そんな週末だった。 

今朝は、昨日以上に美しい晴天になった。
僕は、今日重要なビデオ会議があるので、久しぶりにスーツを着て、
強い日差しの下を歩いて、仕事場に向かった。
2つ目のドミノをようやく倒して、僕は、ついに最後のドミノに取り掛かっている。

最後のドミノが倒れれば、約束を守る事ができる。

彼女のアイディアが、沢山入ったプロジェクトが無事発足し、
これが、上手く進めば、子供達の未来に少しでも貢献できる事だろう。

胸を張れる仕事に、僕が守るべき従業員とその家族達が、
自分達を打ち込める事ができれば嬉しいと思う。

彼らの汗にまみれた笑顔が、僕の幸せになると信じたい。

彼女が、僕の事を待っていてくれれば良いな。。
早く、君に会いたい。
君にあったときに、胸を張って会うことが出来るように、
最後のドミノを確実に倒さないといけない。

これが終われば、君に会える。
あと少しだから、あと少しで君に会いに行くから、
僕のことを待っていてね。



2007年05月22日  Stay with you

今日も、天気が良く、清々しい朝になった。
僕は早めにベッドから抜け出し、いつものように1時間程、ジムで汗を流した。 
室内プールで少し泳いだ後、僕は、ただ無心でウエイトをあげた。
心は千切れるほど切ないけれど、僕には、やらなければいけないことがある。
ジムのガラス越しに見える、ハドソン川の景色に目をやりながら、
僕は、ひたすらウエイトをあげた。
誰もいないジムに、ウエイトの乾いた音が響いた。。

ジムから戻り、熱いシャワーを浴びて身繕いをし、
僕は、仕事場に向かった。
明日からのヨーロッパ第三ラウンドに向けて、
今日は、一日準備に明け暮れる事になる。
交渉の場所として、僕は、バルセロナとリスボンを選んだ。
バルセロナは、僕が、かつて少しの間、生活をした場所であり、
彼女との思い出の場所だ。
彼女と、浜辺のレストランに陣取り、夕日を見ながら、
パエリアを頬張り、サングリアで乾杯をした街だ。。
今度は、僕一人で、勝負をかけに行く。

勝負に対する恐怖心は、僕には、ない。 
必ずやり遂げなければならないと言う信念はあるけれど、
失敗をしたらどうしようと言う恐怖心は、ない。

兎に角、自分の全力を出し切るだけだ。
冥加に尽きれば、それまでの事だ。
彼女との別れは、僕に、人生への執着と言うものを捨てさせてくれた。 

彼女との別れは、僕の気持ちを引き裂くほど辛く、
哀しいけれども、皮肉な事に、
それは、勝負事において、何にも勝る強さを僕に与えてくれている。。
彼女と再び会うために。
彼女と一緒にいるために。



2007年05月28日  カタロニアの太陽

舞台をスペインに移して、僕のヨーロッパでのプロジェクトは、続いている。

仕事の合間に、バルセロナの街並みを歩き、コロンブスの像が、
飾られたバルセロナの港まで歩き続けた。

地中海を眺め、カタロニアの暖かい太陽を浴びながら、
僕は、自分の作戦を練り直し、
平常心を取り戻し、そして最愛の人を思った。

これから、リスボンに舞台を更に移し、ヨーロッパでの仕事は、続く。

ニューヨークから更に、大西洋を渡り、
僕は、この地球の裏側で、独り孤独な闘いをしている。 

僕の周りには、誰も頼れる人は、いない。 
あくまでも絶対的な孤独が、僕の周りを取り巻いている。
ただ、心の中には、僕の最愛の人がいる。
大昔、大志を抱いて、航海に出た人たちも、
僕と同じような絶対の孤独感を抱いたのだろうか。

彼らの心の中には、どんな嵐の中でも、必ず新大陸は、
あると言う確信があったのだろうか?

今の僕にも、必ず、道は開けると言う確信が、ある。 と言うか、
僕には、その確信しか残されていない。。 
あとは、心の中に残る、愛する人の微笑みだけ。。

その二つ以外は、僕の心には、大きな穴があいているように、
何も残されていない。
必ず、道は開ける。 想いは、叶う。



2007年05月31日 リスボンにて

バルセロナから、更に場所をポルトガルのリスボンに移し、
ヨーロッパのプロジェクトの交渉を続けた。

ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の西のはてで、リスボンの街からは、
広大な大西洋を見渡す事ができる。

プロジェクトは、色々な問題を抱えており、なかなか障害を突破できない。 
僕は、従業員の運命と生活を抱え、ただ独りで粘り強く、孤独な闘いを続けている。

かなり無理をしているので、彼方此方で綻びが、
生じ始めているのは、分かっている。。 
ただ、リスクは承知の上での賭けなので、今更、後戻りはできない。

それが会社であれ、他の組織であれ、少なくとも、
人を束ねる立場にいる人間は、一番の困難や危険が振りかぶってきた時には、
自分が立ち上がり責任を持つと言う鉄則がある。 上に立つものが、役に立つのは、その時だけだ。

普段は、何もせず、指示を出したり、承認をしたりするだけで、
実際は、現場の人たちに仕事を任せている。 彼らの努力によって、
僕は、食べさせてもらっているわけだから、一番危ない場面では、
人に任せるのではなく、僕が現場に飛び込んで責任を取るのは、当然の事だ。

ただ、なかなか障害を突破できないうえ、
時間が予想以上にかかっているので、他のところで損害が出始めている。

僕は、まだ30そこそこの頃に、
ニューヨークで大博打の裁判に賭け、陪審員に有罪の評決を受けた事がある。 
1996年のバレンタインの日だ。その評決の結果、一夜にして、
数百億円の損害を生み出してしまい、
ブルックリン橋からイーストリバーに飛び込んでお詫びをしようと思った事がある。

結局、自分を信じて、評決を不服とする闘いを続け、
裁判官の職権で評決が覆され、
幸いにも数百億円の損害と汚名を取り除く事ができた。 
ローラーコースターに乗ったような毎日だった。

僕の彼女が、まだ生きていた頃、ある夜にイーストリバーを散歩して、
彼女にその話をした事がある。
10年以上前の話し出し、僕としては、
若気の至りの笑い話として、彼女にその話をした。

彼女は、僕の話を聞くと、いつもの最高の笑みを浮かべ、
”哀しみを感じた時は、自分が負けた時だからね。”と言った事を思い出した。。

上手くいかない状況を嘆き、哀しみにくれた時点で、
自分は、その闘いに負けている。確かに彼女の言うとおりだと思った。

仕事の合間の気分転換に大西洋岸にそそり立つ崖の上にそびえる古城にのぼり、
大西洋を眺めながら、大きく息を吸ってみた。

港の先には、ポルトガルの強い信仰心を現すように、
大きなキリストの像が両手を広げて海に向かって立っていた。

広大な景色を眺めながら、僕は、新たな気持ちで闘いに望む気持ちになった。 
自分の状況を嘆いた時点で、負けた事になる。

最後まで自分の信じた道を貫くだけだ。 
あと会社には、150億円の資金が残っている。
それが、50億円を割った時に、
僕は、社員全員の生活が確保されるような筋道をつけ、
彼らの無事が確認された段階で、僕自身は男としてのけじめをつければ良い。

それまでは、自分を信じて闘い続ける。。
古城の上から、大西洋に向かって、彼女の名前を叫んでみた。
崖の上を吹き抜ける強い風に僕の声は、
いともたやすく打ち消されてしまったけれど、
それでも、少し元気になったような気がする。
僕は、まだ闘える。





2007年06月02日  It's My Life

ヨーロッパから帰ってきたばかりだが、今週末のフライトで、
今度は、日本と中国に飛ぶ事になった。
ここが踏ん張りどころだから、立ち止まるわけには行かない。
先に弱音を吐いた方が、負ける。

自分の夢を叶えたかったら、必ず叶うと信じて、決して諦めない事。。
そして自分のもてる力の全てを出し切る事。。

昔の日本人は、自分の夢が叶う事を、冥加にかなうと言い、
全力を尽くした後、夢破れたことを、冥加に尽きると言った。 
全力を尽くし、後は、全てを神仏に任せると言う意味だ。

僕は、人生の大半を外国で過ごし、きっとこの人生を外国で終えるだろうが、
それでも正真正銘の日本人だ。
日本人である以上、最後まで日本人としての自分の生き様を全うしたい。

死力を尽くして闘い続ければ、その結果が仮に思い通りにならなくとも、
恥じる事はない。

もちろん、僕は、自分の夢を叶えるつもりで死力を尽くしている。 
自分の夢が、叶わない等と考えた事もないし、必ず叶うと信じている。

しかし結果以上に大事なものは、自分が死力を尽くしたかどうかだと言う事を、
今、深く感じている。
日本人として、恥ずかしくない闘い方で、最後の最後まで全力を尽くしたい。

あくまでも正々堂々と、最後の最後まで死力を振り絞って、
最後まで諦めず、決して弱音を吐かず、自分の生き様を全うしたい。 

ただ、それだけだ。ここまで来ると、もう言葉は要らない。

35人の従業員は、闘い続ける僕の後姿を見て、ただ無言のまま各々が、
するべきことに全力を傾けている。。 それぞれが、
それぞれの持ち場で黙々と死力を尽くしている。

レバノン人の友達も、

アイルランド系の公選弁護人
(パブリック ディフェンダー)出身の熱血法務担当副社長も、

奇病で首から下を動かす事ができなくなった最愛の奥さんと、
自分達の生き様を全うしようとしている技術担当副社長も、

刑務所に入っている兄弟と残された
母親の世話を黙々と続ける天才プログラマーのビルも、

それぞれの仲間が、それぞれの想いを胸に抱いて黙々と闘い続けている。
誰も泣き言を言わず、誰も諦める事も無く、
ただただ愚直に壁にぶつかり続けている。 いつか、その壁が崩れると信じて。。

僕は、こんな素晴らしい人たちと人生最後の挑戦をすることが出来て、
なんて幸せな男なのだろうと思う。 

彼らが、黙々と闘い続ける姿を見ると、ただただ頭が下がり、
目頭が熱くなる。

男冥利に尽きるとは、こういう事なのだろう。。

これが、僕の人生なのだ。 ならば最後の最後まで自分らしく、
自分の信念を持って、自分の生き様を全うしよう。
そう思うと、逆に精神的に余裕が出て来て、中国に旅立つ前に、
手入れを忘れていたバルコニーを、草花で飾りたいと突然思い立った。
夜中まで仕事を続け、零時過ぎに、仕事場を出て、車に乗り、
ブルックリンにある24時間営業のHomeDepoに出かけて行った。

HomeDepoは、日本で言えば、東急ハンズのような店で、
大工道具から植木まで、家に関するものは、何でも売っている。
 24時間営業と言うのが、アメリカらしいけれど、僕は、夜中過ぎに、
決して治安が良いとはいえない、HomeDepoに出かけ、
小さな植木を4本、紫、赤、橙の花を5株、
肥料と土、プランターを装飾する大理石を砕いた石を4袋買った。
それらをトラックに積み込み、夜が明けるまで、庭いじりをした。 
東の空が明るくなるまで、プランターに土と肥料を入れ、
草木を植え、大理石を砕いた石で装飾をする。。

本当は、そんな時間があったら、睡眠をとった方が良いのだろうが、
ふと、草花の世話をしながら、草花に話しかけている自分に気がついた。 
それは、プロジェクトのシュミレーションであったり、
彼女の事であったり、単なる愚痴であったり。。

草花は、ただ黙ったまま、優しく微笑むように僕の話を聞いてくれていた。。

草花も生きているし、魂は、ある。 そうやって、僕を思いやり、
僕の気持ちを静めてくれる、草花に、僕は、素直に感謝をし、
感謝の気持ちを込めて、丁寧に一つ一つプランターに植えて行った。

朝日で色づき始めた東の空を眺め、草花のお陰で、
僕は、また静かに闘志を燃やし始める事ができた。

It's My Life。。。 これが、僕の生き様だ。。
これから日本をへて中国に乗りこみに行く。。



2007年06月10日 上海夜曲

一週間で日本と上海を駆け抜けた。
1週間前にニューヨークを出る時は、丁度土砂降りの雨で、
前日にケネディ空港の燃料を運ぶパイプラインの
爆破テロ未遂事件があったばかりで、
ざわざわとした雰囲気の中での旅立ちだった。

曜日を忘れるほど、一心不乱に仕事をした。

夜、ホテルの一室に戻り、外の景色を見ながら、
タバコを吹かす時だけが、僕の時間だった。

夜景を眺めながら、窓の外の闇に浮かび上がる自分の疲れた姿を眺めながら、
僕は、ニューヨークに残してきた草木の事を思い出した。。 
そして、彼女の事を思い、途方にくれる自分を思った。

僕は、おもむろに、鞄の中から一通の古びたカードを取り出して、
それを始めて見たかのように、暫く眺め、カードの中身を読んだ。。

それは、昔彼女から貰ったカードだった。。

まだ彼女が生きている頃、仕事で旅に出かけたある朝、
空港のバーでメールをチェックしようとPCを開けた時に、
このカードが、挟まれていた。

見慣れた字で僕の名前が書いてあった。

丁度彼女は、自分の現状と将来の事で、悩んでいた時だったので、
僕は、ちょっと不安になって、急いでカードの封を切った事を、
まるで昨日の事のように覚えている。。

カードの中には、こう書いてあった。。
”ここ数ヶ月、アタシは、今の自分を変えたくて、
将来の自分が見えなくて不安で、貴方に辛い思いを
させてしまったかもしれないけれど、貴方はいつもアタシのそばにいてくれた。
貴方がいてくれなかったら、きっと、今のアタシは、
ここにいる事は出来なかったと思う。

全部貴方のおかげだった事を、貴方に伝えたくて。
知って欲しくて、このカードを書いています。 
本当にどうもありがとう。

アタシにとって、貴方は人生で一番大事なもの。 
そして、これからもアタシの人生の全てを貴方と分かち合い、貴方に知って欲しい。
永遠の愛を込めて。”

別に何と言う事はない一枚のカードだけれど、何故か、
僕は、このカードを鞄の底に忍ばせて、いつも持ち歩いている。

そして、今夜のような日に、たまにそれを思い出しては、手に取り、眺めている。
思い出は、時間がたつにつれて、更に鮮明に、美しくなって行く。。
僕は、愛する人の筆跡を指でなぞり、その温もりを感じようとしていた。



2007年06月12日  Soul City

昨日の午後にニューヨークに帰ってきた。

乗換えで立ち寄った成田空港で、思わぬ雷雨に遭遇し、
1時間ほど飛行機が遅れた。
日本を発ってから、数時間は、かなり揺れたが、
日付変更線を越えたあたりから、穏やかになり、
その後は、快適なフライトになった。

昼過ぎにケネディ空港に落りたち、1週間空港の駐車場に
放ったらかしにしておいた埃だらけの車に乗りこみ、
僕は、ハイウェイをマンハッタンに向かった。

途中で、花屋に立ち寄り、花を幾つか買った。
家について、シャワーを浴び、ベランダに出て、草木の手入れをして
買ってきた花を植えた。 花の周りに蜂が飛んでいるのを見つけた。 
僕は、庭の手入れをして、少し自己満足に浸りながら、
籐椅子に腰を下ろしてタバコに火をつけた。

僕の体内時計は、とうの昔に壊れている。
柔らかな午後の日差しの中で、僕は、草木の音と、
花の間を飛び交う蜂の音を聞きながら、ゆっくりと流れる時間を感じた。

仕事は、決して順調ではない。 
しかしここまでくれば、後は、自分の信じる道を進むだけなので、
気持ちに焦りは無い。

最後まで自分を信じて全力を尽くすだけだ。
僕の経験上、自分の考えに100%自信が持てない時に、
何か問題が起こると、必ず心に迷いと焦りが生じる。 
ここまで血のにじむような思いで、何度も何度も、
考えに考えを重ねた上での作戦だ。

脳漿を搾り出すような作業を何ヶ月もかけた上で、
これしかないと確信を持つにいたったプランだから、
このプランは、僕と言う存在そのものになっている。 
そして、それは、僕だけでなく、彼女がこの世に生きた意義そのものになっている。
だから迷う事はない。。



2007年06月13日  さらば友よ

今日は、昼過ぎから雨が振り出し、
夕方には、マンハッタンも豪雨に見舞われた。
僕は、ベランダの草木を心配しながら、一日中仕事を続けた。 
一時は、それほどの豪雨だった。

僕の仕事も、今日は、荒れ模様だった。
ついに、現状に不安を感じた社員の3人が、
会社を辞める事になった。

鉄の団結をこれまで誇って来たけれど、現状を鑑み、
将来に不安を感じる人が出て来る事自体は、仕方ないと思ったので、
僕は、かれらに精一杯の誠意を示して送り出す事にした。

会社が潰れた時に、従業員の生活を補償をする為に
取っておいた金の一部を辞める従業員に与えた。

そこまでやる事はないだろうと、レバノン人の友達は言った。

僕は、”我々は、自分の意思でここに留まるのであって、
別の判断をした人達に対してこれを非難するような事をしてはいけない。
むしろ、去って行く人達に、今までの貢献に感謝をして、
それに見合ったお礼をして送り出すべきだ。 
そうする事で、ここに留まる人達の絆を更に強くする事ができから。
”とレバノン人の友達に説明をした。

彼は暫く黙ってうつむいていたが、顔をあげ僕に笑顔をみせ静かに頷いた。

僕は去って行く人達、一人一人と固く握手をし、
彼らの今日までの努力と貢献に素直に感謝をし、これから先、
彼らが進んで行く道で成功を掴む事ができるように、心から祈った。
さって行く人達の後ろ姿を見送る事は、少し寂しいけれど、別れはつきものだ。
永遠に続くものは、この世の中には存在しない。 
始まるものには、必ず終わりがある。。

そして、38人の侍は、35人になった。
次の勝負をかけるべく、僕らは、交渉相手の本社を訪れた。

僕らと比べれば、とてつもなく大きな会社で、
僕らは、その会社の本社ビルの前で、あんぐりと口を開けビルを仰ぎ見た。

一つ深呼吸をして、僕は意を決してビルの回転ドアに向かって一歩踏み出した。

そして、前を見たまま、後ろについて来る僕の仲間達に、
"Here Goes!" (さあ、行くぞ。)と声をかけた。

誰かが、僕の後ろで、"Let's Roll." (ぶちかまそうぜ。)と呟いた。。
この一言で、去って行った人達の事が、僕の頭から消えて行った。
今まで、ついて来てくれてありがとう。
君の選んだ道が、成功する事を、僕は、心から祈っているよ。

君は、君の道を行け。

僕は、僕の道を行く。。

勝負をかける。。



2007年06月15日No Direction Home

状況は、相変わらず、厳しい。
ただ次から次へと仕掛けを準備し続けている。
僕らの所は、たかが35人のちっぽけな所で、僕らの相手は、
何万人の大所帯だ。 今の所、何とかしのいでいるけれど、
守りに入ったら、力ではどうにもならない。 必ず押しつぶされる。

映画の300ではないけれど、35人対数万人では、勝負にならない。

唯一生き残る方法は、どんなにボロボロになっても、
闘って闘って闘い抜くこと、攻めて攻めて攻めまくる事しかない。

立ち止まった瞬間に、潰される。

彼女が天国に帰ってしまった今、僕が、
心を開ける唯一の話し相手は、ベランダに咲く草花になった。

花を手に取り、水をやるほんの数分の間に、
草花に手を触れながら、話しかける。

僕が、知らない間に、僕は、本当に故郷を遠く離れてここまで来てしまった事。。 
もう、今更故郷には戻れない事。。彼女の所に戻る術もない事。。

僕には、もう前に進む事しか許されない。

草花も何かの縁で僕の所に来て、植木鉢のなかにおさまり、
もう元に戻る事はできない。

今咲いている花も、いずれは散る。
僕のベランダの小さな植木鉢の中が、彼らの最期の場所になる。

そうであれば、彼らが咲いている僅かの間でも、
一生懸命に世話をして、言葉を交わしたい。

草花は、僕をそんな気持にしてくれる。
気がかりなのは、仕事が、思った以上に手間取っている関係で、
僕は、折角彼女の為に作った財団の仕事に手が回っていない事だ。

ちょっと彼女に後ろめたい気持になった。 
財団は作ったけれど、まだ子供達を助けられていない。

そして、今は僕自身の仕事の存亡の危機に直面し、
そちらにかかりきりになっている。

別に諦めてしまった訳ではないけれど
僕にもしもの場合があった時に、
誰かが財団と彼女の夢を引き継いで行って欲しい。

その場合、誰が、彼女の夢を引き継いでくれるのか? 

クリントン前大統領が、ハーレムで、クリントン財団を運営している。 
あるいは、女優のアンジェリーナ ジョリーのファンデーションか。。 

昔、彼女の病気が進行していたけれど、まだ入院する前の事だったが、
彼女に彼女の夢の行方を少しでも見せてあげたいと思い、
クリントン財団の知り合いを通じて、彼女が、大学に通いながら、
ボランティアをそこでできるように取り計らった事があった。

アンジェリーナ ジョリー、ブラッド ピット夫妻が、
クリントン前大統領を訪問し、彼らに会った時の事を興奮気味に話した彼女の顔を思い出した。

彼女のその時の笑顔を思い出しながら、
草木に触れていると、自然に僕の顔も笑顔になった。 
そしてその笑顔でまた気力を振り絞り、仕事を何とか前に進めようと、また立ち上がる。
兎に角、今の僕には、立ち止まる事は許されない。



2007年06月20日  あと半年

あと9ヶ月で結果を出さないといけない。

その為には、6月中にある程度目鼻がたっていないと、
今年度中に目標を達成するのは、非常に難しくなる。

一つ目と二つ目のドミノは、倒れたが最後のドミノがどうしても倒れない。

最後のドミノが倒れなければ二つのドミノが倒れても意味が無い。

既に6月19日になったが、最後のドミノの状況は相変わらず変わらない。

今朝、仕事場に行く前に、ハーレムに出かけ、クリントン財団を訪れた。 
万一、僕が失敗した場合、彼女の慈善団体の活動をクリントン財団に託すためだ。 

僕が志半ばで倒れても、誰かが彼女の夢を継がなければならない。

彼女の夢を実現するのは、僕だと信じているけれど、
彼女の夢を僕が理由で絶える事がないように、
最悪の場合に備えて手を打っておく必要があると思ったからだ。

クリントン財団での打ち合わせが終わり、
僕は、ハーレムから自分の仕事場まで、Park Avenueをゆっくり南に走った。

天気が素晴らしく良かったので、車の幌をおろして、
夏の太陽の光を浴びながら、ゆっくりと車を走らせた。

交差点の赤信号で止まり、僕は、太陽を見上げ、彼女を思った。 
彼女との楽しい思い出が、走馬灯のように僕の心の中で回っては、消えた。。

仕事場に着き、状況を確認し、作戦を練り直した。

最悪の場合には、今の会社を二つに割るつもりでいる。 
ひとつは、引き続き、ドミノ倒しに挑戦する会社だ。 
ここに大半の従業員を移し、この会社は、彼女の夢を叶え社会に貢献をする。

もうひとつの会社は、
大半の従業員が移る会社を成功させるために捨石になる会社だ。 
そこには、僕とごく少数の従業員が移る。

捨石になる会社は、不要なものを全て捨て、
徹底的な戦闘マシーンに姿を変え、夢の実現の妨げになっている会社に対して、
その存亡をかけた訴訟を提起する。

訴訟を進めることによって、障害を取り除き、
もうひとつの会社が夢を実現する事ができる。 
しかし、訴訟をすると言う最終手段を選択した事で、
この捨石になる会社とそこに所属する社員は、会社とともに消え去る運命になる。

最終的には、この方法しかないだろうと思っている。
あと半年頑張って、進展が無ければ、この方法を取らざるを得ないだろう。

僕が、この目でそれを見ることができなくとも、
誰かが夢を継いで実現しなければならない。 
そのためであれば、喜んで、僕は、捨石になる。

捨石になる会社は、贅肉を全てそぎ落とした戦闘マシーンなので、
僕と、数人の優秀な弁護士がいれば機能すると思うが、
きっと、レバノン人の友達等、少数の人間は、
きっと僕と運命をともにしたいと言い出すだろう。

ただ先のことばかり考えていてもしょうがないので、
今は、それを胸に秘めたまま、あと半年間、
今の状況を打開すべく闘い続けるだけだ。

海外で独りで闘い続けてもう何十年の月日がたった。 

海外で仕事をしていると、回りから、
”あいつは、日本人だから。”とか”あいつは、アジア人だから。”とよく言われ、
そういう目で見られることが多い。 

偏見で見られる場合もあるけれど、
”あいつは、サムライだ。”と好意的に言われる場合もある。

要は、彼らは、僕の行動を、
一般化して日本人の行動として見ていると言うことだ。

好むと好まざるとに関わらず、そういった意味で、
僕は、自分の国である日本を背負っている。 
僕の生き様は、彼らからしてみれば、日本人の生き様だから。。

特に人種のるつぼであるニューヨークでは、
自分の故郷に誇りを持っていない人間は、相手にされない。 
そして、彼らは、その誇りを胸に日々闘っている。

だから、僕も自然と、自分のルーツ/故郷に誇りを持って、
自分の言動の一つ一つが、故郷を背負っていると自覚をしながら、
日々を生きていく事になる。

僕は、およそ社会性の乏しい人間だったので、
まさか自分が、こんな気持ちになる事は、ないと思っていた。

ここまで追い込まれると、ただ日本人として
恥ずかしくないように心がけたいと思っている自分がいる。
不思議なものだ。。






2007年07月01日  最期の晩餐

僕は、人に頼まれると断る事ができないと言う悪い癖が、ある。
それから、たとえ頼まれ仕事でも、いざ、始めると、
どこまでものめり込んでしまうと言う悪い癖もある。
それが災いして、随分と人には騙された。
でも、それは僕の性格なのだから、仕方ない。
昔、僕の友達が、オンライン ギャンブリングの小さな会社を始めた。
彼は、オンライン ゲームの先駆けで、試行錯誤を繰り返して
ビジネスを立ち上げようと必死になっていた。

彼は、その時、既に高齢だった某技術者と知り合いになり、
その人の発明した技術を導入して彼のシステムの改良を続け、
ようやく、ビジネスが軌道に乗り始めた。

暫くして、大手のゲーム会社が、彼のシステムを真似て同様の
オンライン ゲームを始め、彼も頑張ったが、熾烈な競争の末、
大手の会社に市場を席巻された。

彼は、そのときの無理がたたって、
体を壊し、失意のうちに病院で息を引き取った。

彼が死ぬ直前に、僕は、彼を病院に見舞った。
家族に囲まれていた彼は、暫く僕と談笑をしていたが、
自分の死期を悟っていたのか、家族が席を外している間に、
僕の手をとり、涙ながらに自分の無念を語った。

それから数週間して、僕は彼が息を引き取ったと聞いた。

彼の葬儀が終わり、一段落した所で、僕は、彼との約束を守るべく、
その老齢の某技術者を訪ね、その技術者に、
僕の友達が無念の中に死んだ事を伝え、その技術者に形だけ、
彼の会社を引き継いでもらう事にした。

そして、僕らは、市場を席巻した大手の会社を相手取って、
その技術者の保有する特許侵害訴訟を提起した。

その高齢の技術者も、決して裕福ではなかったので、弁護士を雇うお金はなく、
僕は、成功報酬ベースで働く弁護士を見つけて来た。 
そすれば、訴訟に勝つまでは、弁護士費用を支払う義務は無い。

行きがかり上、死んだ友達に頼まれ、断れきれずにその仕事に巻き込まれ、
彼との約束を守る為に、いつしかその仕事に没頭する僕がいた。

僕は一筋縄ではいかない法曹界の無頼漢を4人集めて来た。

主任弁護士は、中国移民の2世で、苦労して弁護士になり、
気の荒い連中の住むブルックリンで検事として
活躍していた変わり者の敏腕弁護士のジョン。

技術担当弁護士は、腕は良いのだが、
好きな仕事しかやらない気分屋のため、いつの間にか、
評判が地に落ち、ニュージャージの田舎町でボートに住むまで
落ちぶれた元特許弁護士のマイク。

その他、大学時代に学生結婚した奥さんに全く頭が上がらず、
内気になって、法廷で働く事ができなくなった弁護士、
そして僕が信頼するとうの昔に引退して隠居生活を楽しんでいる
文書管理のプロの4人を集めて来た。

僕を加えた5人のチームで、某有名な大手を訴え、3年間闘い続けた。
闘いの途中で、高齢だった技術者は、
訴訟の結果を待つ事なく逝ってしまい、その婦人と孫が会社を引き継いでくれた。

3年間闘い続けて、ついに、その大手の会社が、
賠償金を支払うので和解をして欲しいと申し出て来た。

僕らの努力が、ついに報われた瞬間だった。
和解交渉を終え、全ての書類にサインをして、その足で、
去年逝ってしまった技術者の未亡人を訪ねた。 

そして、彼女に事の顛末を説明し、
賠償金の10億円が、彼女の口座に入った事を伝えた。

彼女は、涙を流して僕らの手を千切れんばかりに握って
感謝の気持を何度も何度も言ってくれた。

”貴方達のお陰で、主人の無念を晴らす事ができました。 
また主人の技術が、こんなに素晴らしいものだと私も知りませんでした。
貴方達のお陰で、主人の名誉も回復され、
私は、そんな素晴らしい主人を持っていたのだと知る事ができて
こんなに幸せな事はありません。”と、その老婦人は僕らの手を離そうとしなかった。

暫くして、その老婦人から、成功報酬の1億円を、受け取った。
3年で一億円では、この業界では、決して人に胸を張れるような金額ではない。
ただ、お金よりも、この3年間、闘い続けた4人の仲間達は、
何か得るものが、あったようだった。

喧嘩にならないように、一億円を5人で等分して、
一人2000万円づつ小切手を分け合った。

チームの解散式をダウンタウンの小さなレストランでささやかに行った。

この訴訟の為に作られたチームだから、
この訴訟が終わった後は、こうやって5人が一緒に顔を会わせる事は、もうない。
レストランの隅の円卓に5人ですわり、
この3年間の色々な思い出話をしながら、楽しく食べ呑んだ。
食事も終わりに近づき、僕は、各人に、2000万円づつの小切手を渡した。 
それを受け取ったときが、別れのサインだった。

皆、それをわかっている。 だから名残惜しそうに小切手を見つめていた。

やがて決心をしたように、ボートに住むまでに落ちぶれたマイクが、
”これで、ボートの修理でもするか。”と言って、笑って立ち上がった。 
そして、皆と握手をして、笑って去って行った。

その後に、一人二人と去って行き、円卓には、僕と、ジョンが、残された。

僕が、ジョンに、
”こんな金にならない仕事を引き受けてくれてありがとう。”と
感謝の言葉をかけた。 そして、
”君なしで、僕らは、今日のこの日を迎える事はできなかったよ。”と伝えた。

ジョンは、笑って、残っていたグラスを飲み干した。
そして、”確かに金には、ならない仕事だったけれど、ここ何年か、
心の片隅の置き忘れていたものを見つける事ができたよ。”と言って、また笑った。

ウイスキーをもう一杯頼んで、彼はそれを一気に呑みながら、
”俺は、日本人が好きじゃなかったんだけど、
お前は、本当のサムライだと思ったよ。
一度決めたら何があってもがむしゃらに、愚直に突き進んで行く。。
お前と組んで、忘れていた気持を取り戻したような気がするよ。 
ライオン ハートをね。”と言った。

そして、席をたち、僕に握手を求め、
”あんまり、考え込むなよな。”と言って、ウインクをした。
僕も席をたち、彼と一緒にレストランの外に出た。

別れ際に、ジョンに、”金をどうするんだ?”と聞いた。
ジョンは、笑って、”車の頭金にでもするよ。”と言って、また笑った。
そして、もう一度握手をして、僕に背を向け、夜の街の中に消えて行った。
皆を見送り、僕は、また一人になった。
良い仲間達だった。 決して、金銭的には、得をしなかったけれど
人助けだからこれで良いんだ。

僕は、仕事場に戻って、自分の手元に残った、
2000万円の小切手を封筒に入れ、
失意のうちに死んでしまった友達の奥さん宛に小切手を送った。

大した金額ではないけれど、残された子供の学費の一部くらいには、なるだろう。
彼の会社を葬り去った大手企業が、
彼らのアイディアを盗んだ事を認めたという事実を、
僕の友達は、墓の下から喜んで受け止めているに違いない。
”やっぱり、俺が、最初だっただろ?”と笑いながら、
得意がる彼の顔が、頭の中に浮かんだ。

今夜は、君たちの為に呑のむ。
全ての死んでいった僕の友達の為に。。

44年生きて来て、沢山の人とすれ違って、巡り会って、喧嘩をしたり、
笑いあったりして、ある者は、死んでいき、ある者は、別の道を歩いていく。。 
そこから色んな事を学んだ気がします。
そして、その人達、一人一人の想いを抱いて生きていくのが、
僕の道なのかなって思った訳。
僕は、自分のやりたい事が見つからなくて、
結局、人の為に生きるって言うのも悪くないなって思ったんだ。 
でも、自分が正しいと思った事をするって言うのが、基本だけどね。
だから、騙されるのは、自分の器量不足かなって反省してるんだ。(笑)
確かに得にはならなかったけど、僕に一番辛いのは、
何もする事がないって言う事だから、何かをできているって言う事は、
幸せなのかなって思っています。



2007年07月03日  ニュージャージー

ここに僕は、19歳の時に来た事があるのだ。

僕が、最初にニューヨークに来たのは、今から25年前の事だった。 
その頃、金が無くなり、
仲の良かった友達の実家に暫く厄介になる事になったのだが、
それが、ニュージャージのこの街だったのだ。

当時から寂れた街で、マンハッタンには、グレイハウンドの
ハイウェイバスに1時間半揺られないといけない。 ハイウェイの周りは、
石油精製所が立ち並び、石油タンクと先から炎をちらつかせている煙突が、
なんとも切なさを掻き立てた。

当時は、19歳の多感な頃で、金銭的にも逼迫していたので、
今以上に切なさを掻き立てられていたに違いない。。

僕は、その話を、友達にはしなかった。
ただ、謎が解けた満足感と、なんとも懐かしい気持ちと、
それから25年が過ぎたと言う感無量な気持ちが、混ざり合った
不思議な気持ちを胸に抱えながら、海を見つめ続けていた。

その時、世話になった友達の両親は、その後離婚をしてしまい、
父親も母親もこの地を離れた事を思い出した。

そして、その友達とも、僕が音楽の仕事から離れるにつれ
、疎遠になり、そのうち連絡が取れなくなり、
今、どこにいるのか、何をしているのか、、、僕には、分からない。

ブロンドの眩しい可愛い女の子で、
黒いジーンズに、ゴールドトップのレスポールが、良く似合う女の子だった。

長く生きていくと、たまに、
人生ですれ違った人たちのことを忘れてしまう事がある。 
でも、何かのきっかけがあったとき、その人たちは、
僕の記憶の中に鮮明に蘇って来る。。

不思議なものだ。。



2007年07月04日  独立記念日  彼女との想い出の空想

独立記念日の朝は、ちょっと肌寒い曇りになった。
今日の3時頃には、雨が降り出すらしい。
今年は、静かな独立記念日になりそうだ。 
去年は、死んだ彼女と一緒に家でBBQをやって、友達を呼んで騒いだっけ。
彼女が死んで、友達は、結構、僕に気を使って、
BBQなんかに誘ってくれたけれど、
今年は、彼女の魂と静かに時間を過ごしたいと思っている。
3日の午後には、殆どの人が仕事を早めに切り上げ、仕事場を後にしたので、
早いうちにビルは、ガラガラになってしまった。 
今日はいつものビルの清掃員もやって来ない。

僕は、一人夜になるまで仕事場で、色々と雑務を片付けた。 
だれもいないので、お気に入りのジャズを大きめにかけた。
僕の仕事机の上では、
いつもどおり最高の笑みを浮かべている彼女の写真がある。 
その写真に向けて小さなライトをあてているので、夜になると、
暗い仕事場に、彼女の写真だけが、ぼんやりと浮き上がっている。
僕は、机の引き出しに入っているウイスキーの小さな瓶をだし、
机の上に足を投だし、彼女の写真を眺めながら、瓶の蓋を開けた。

彼女の写真にむけて瓶をかざし、
小さな声で、”独立記念日、おめでとう。”と
彼女に言い、ウイスキーを飲んだ。

独立記念日の前後には、いたる所でローカルの花火大会が催される。
僕の仕事場からも、花火の爆発音が、遠くから聴こえて来た。

仕事を片付け、家に戻った。 
丁度近くで花火をあげている所だったので、ベランダに一人出て、
ウイスキーを片手に花火を眺めた。

花火を見ながら、去年は、ここに彼女がいたんだなと、ふと思った。 
2つ並んだ籐椅子のひとつが、ぽっかりと穴があいているように見えた。 
去年は、そこに彼女が座っていた。

花火を見終わり、僕は、しばらく夜の闇の中でウイスキーを飲み続けた。 
古い、ガットギターを手に取って、
バーデン パウエルの古いボサノバを爪弾いてみた。
彼女の好きだった曲だ。 
今夜は、彼女の魂と酒を飲もうと思った。 昔のように。。。
そう思って、彼女が好きだったワインを開け、グラスにそれをついで、
誰も座っていない籐椅子のとなりにグラスをおいた。
僕は、ウイスキー。 彼女は、白ワイン。
まるで昔のように。。



2007年07月05日  繊細、洗練、優雅、素朴、才気煥発、孤独、諧謔

独立記念日は、雨が降ったりやんだりの生憎の天気になった。
気温も肌寒く、雲が厚く張り詰めた一日だった。

カーテンを閉めずに寝たので、曇りでも朝になるとその光で目を醒ました。 
空は、灰色で、川面からもやが立ち、霧に包まれたような朝だった。

僕は、ベッドから上半身だけを起こして、暫く外の景色を眺めていた。
もやの中に見え隠れする川と対岸の建物は、まるで水墨画のように思えた。
昨日も独りでかなり深酒をした。 空のウイスキー瓶が、床に転がっていた。
僕は、朝もやの冷たい空気を胸いっぱい吸い込んで、
深呼吸をした後、やっとベッドから起き上がり、ウイスキー瓶を片付けた。 

フランスものの両切りタバコに火をつけて煙を吸った。
日本で言えば、ショートホープみたいなものだが、
この手のタバコをアメリカで見つけるのは、簡単ではない。 

両切りタバコを吸うのは、深酒をした翌日の僕の習慣だ。
両切りタバコに、濃い目のコーヒー。 そして、ストーンズの曲。

僕は、寝起きの目をこすりながら、まだ霧に包まれているベランダに出て、
いつもの籐椅子に腰をかけた。 足をテーブルにのせ、
左手にはタバコ、右手には、コーヒー。。 全てが、いつもの通りだ。

そして、その水墨画の中に身をおいて、色々と考えを巡らせた。 
水墨の山水画には、必ず隅の方に小さく仙人が、描かれている。
僕は、まるで山水画の仙人のように、目の前に広がる世界の前では、
自分がいかにちっぽけな存在かを感じながら、
椅子に腰掛け、目の前に広がる景色を眺めていた。

自分がやらなければならない事、
彼女との思い出、想いは、尽きなかった。
一時間ほど、ベランダで考え事をしてから、
僕は、おもむろに立ち上がり、タバコを咥えながら、朝食の準備を始めた。

料理した朝食を持って、僕は、またベランダに戻った。

近所の人たちも起き始めたようで、やはり同じように
ベランダで食事を準備する音が聞こえてきた。 
川と緑を見ながら、外で食事をすると言うのは、
やはり独立記念日の定番なのだろう。

僕も、一応、テーブルクロスを敷いて、
一輪ざしに花を一輪さし、テーブルに飾った。
彼女の席だった所にも、彼女用に食器を並べた。
”独立記念日おめでとう。”と僕は、誰も座っていない隣の椅子に話しかけ、
静かに食事をした。

彼女の病気が、分かったのが、丁度去年の7月だった。
あれから一年が、たった。 色々な事が、一度に起こったけれど、
あれから一年たって、僕は、まだここにいる。

まるで一年間、何事もなかったかのように。
たった一人になってしまったけれど、
僕は、彼女の心に話しかけながら、静かに一日を過ごそうとしていた。 

彼女の魂とゆっくり話をする一日も必要だと思ったから。
繊細、洗練、優雅、素朴、才気煥発、孤独、諧謔、、彼女を表現しようと思うと、
彼女の多面性故に、言葉を尽くしても、言い尽くすことは、できない。
僕の最愛の人。。 そんな彼女の魂と、一日、じっくり触れ合ってみたいと思った。



2007年07月07日  秘密の場所

金曜日は、久しぶりに夏らしい日になった。
水曜日が独立記念日だったので、今週一杯は、
休みを取っている人が多く、マンハッタンも心なしか人が少ないように感じる。

僕の仕事場のビルも、いつもより人が少なかったので、
この時を利用して、僕は、普段手のつけられていない仕事を片付けたりして、
一日を過ごした。

折角の金曜日なので、いつもより早く仕事を終わりにする事にして、
僕は、駐車場に向かい自分の車をピックアップした。
いつもの大柄な駐車場の管理人から車の鍵を受け取った。 

管理人は、黒人独特の大きな目で愛嬌一杯に、”楽しい週末を!”と言った。
僕は、彼にウインクをしながら、手を振り、車に乗り込んだ。

エンジンを目覚めさせ、僕は、突然、気持が変わり、家ではなく、
ダウンタウンへ車を走らせた。 ウエストサイド ハイウェイに出て、
ニュージャージー側に沈もうとしている太陽を追いかけて、
ハイウエイを南に向かった。

マンハッタンの南端のバッテリー パークでハイウェイを降り、
車を止め、彼女と昔、良く通った小さなイタリアレストランに足を向けた。

そのレストランは、マンハッタンの南端にあり、
自由の女神とニューヨーク湾を正面に見る事ができ、
緑の芝生を敷き詰めた庭にテーブルを配置たオープンカフェだ。

夏の天気の良い日には、彼女と、よくこのレストランに来たものだ。 
気持のよい海風を受けながら、何度も白ワインで乾杯をした
僕と彼女の思い出の場所だ。 そして、彼女が、いなくなった今となっては、
僕の秘密の場所になった。

彼女と最期にここに来たのは、季節外れの晩秋のことだった。
夏の間は、賑やかなのに、夏が過ぎるとこの場所は、
人気もなくなりとても寂しい印象を受けたのを覚えている。 
彼女の病気は、かなり進行しており、
そのせいで、彼女の白い肌は、より青白くなり、
何処から見ても具合が悪いのがわかって、
僕はその顔を見るのが何よりも辛かった。

彼女は、思い出の一杯詰まった、
そのレストランでどうしても食事がしたいと言いはり、
季節外れの晩秋に、
その店を訪れ、店主に我侭を言って、夏のときのように、
庭にテーブルを一つ出してもらい、僕らは、外で食事をした。

僕らは、コートを来たまま、庭に出されたテーブルに腰をおろし、
テーブルの上で手をつないで、ニューヨーク湾と自由の女神を眺め、
Sparkling Waterで乾杯をした。

彼女は、コートの袖をまくって、自分の肌を日の光にさらし、
”病人みたいに青白いから、少し日焼けがしたい。”と言って、
僕の方をみて寂しげな微笑みをなげた。

僕も微笑んで、握っている彼女の手に力を何度かこめた。 
ただ、僕は、言葉はなく、彼女の手を取って微笑み続けた。

結局、僕らは、日が落ちるまで、
そこにいて、静かに日の入りを見送った。 
彼女の頬から涙が、何粒も落ちた。。 
僕には、何もする事ができず、
気の効いた言葉もかけることができず、
ただ彼女の手を握りしめ、椅子を彼女の近くによせ、
彼女の肩を抱き寄せた。

日の入りを見送り、彼女は、涙で濡れた頬を拭い、
”そろそろ行こうか?”と言って立ち上がった。 
”具合が、良くなったら、
夏にまたここで食事をしようね。”と彼女が、言った。

僕は、すっかり凍えてしまった彼女の体を温めようと、
僕のコートの中に彼女を包み、肩を抱いて歩いた。 
そして、彼女に、”夏になったら、二人でまたここに来て、
ボートを見ながら、食事をしよう。 
その時には、君の好きなサンセアのボトルを開けて、
自由の女神と乾杯をしよう。”と言った。。。

僕を思い出から引き戻すように、
ウェイターが、庭のテーブルを指差して、
”あそこで良いですか? お一人ですか?”と聞いた。

僕は、我に返って、”あそこのテーブルが、良い。”と
別のテーブルを指差した。 
そこは、彼女と晩秋のあの日に座ったテーブルだった。
あの時と同じように、自由の女神の方向に日が沈もうとしていた。
ウェイターにサンセアのワインボトルを注文し、
グラスを二つ持って来るように頼んだ。
自由の女神を眺めながら、僕は、あの時の彼女のように、
シャツの袖をまくり上げ、手を沈み行く太陽にかざした。

ウエイターが、ワインとグラスを持って来た。 
ワインを開け、二つのグラスについだ。 
ウェイターが、訝しげに僕を見て、去っていった。

僕は、ワイングラス越しに自由の女神を眺めた。 
白ワインの黄色と、夕焼けの赤が、混ぜあわさって独特の色の中に、
黒い影となった自由の女神が、揺れていた。

僕は、自由の女神に乾杯をし、
逝ってしまった彼女に、"I Love You.”と呟いた。 
そして、”約束どおり、君とこの場所に食事をしに来たよ。”と
語りかけた。
僕は、あの時と同じように、日が完全に落ちるまで、
そのテーブルに座って、日の入りを見送った。。。



2007年07月13日  面接

僕は、新しい仕事を計画中で、現在ロンドンにオフィスを作る準備をしている。
計画としては、来年の春までには、ロンドン オフィスを作るつもりだ。

問題は、僕は、ベースがニューヨークなので、
当然会社は、アメリカ主導で活動をするが、
ヨーロッパとアメリカの関係をうまく纏めないと、つまらないポリティックスや、
誤解で無駄な時間を浪費してしまう事を経験上知っていることだ。

前に、アメリカ人をヨーロッパに送り込んで、
つまらない意地の張り合いで、失敗した苦い経験がある。

僕の仕事は、法律に深く関わる部分が多いのだが、
ヨーロッパは、EUの中でも国によって法律が異なるので、
フランスの弁護士の言う事と、ドイツの弁護士の言う事と、
イギリスの弁護士の言う事は、必ずしも一致せず、
ヨーロッパの市場も国によって状況が違う為、そこに下手にアメリカ人を送り込んで、
アメリカ特有のグローバルスタンダードで無理押しをすると、
とんでもない反発を買ってしまう。

色々考えた挙句、姑息だけれど、アメリカで弁護士資格を持ち、
アメリカの法律システムに精通した
ヨーロッパ国籍を持つヨーロッパ人を探して、雇う事にした。

ヨーロッパ人の顔を持ち、アメリカ人の心を持つ奴を探して、
うまくヨーロッパの意志を纏めさせながら、僕の理論を押し通そうと言う作戦だ。

言うのは、簡単だが、そんな都合の良い人材が、簡単に見つかるはずもなく、
ここ半年ばかりは、色々な人の面接に明け暮れた。

これは、と言う人を見つけても、給料が高すぎて、僕には、払い切れなかったり、
どうも皆、帯に短し、襷に長しという感じで、人選は、難航した。

昔、黒澤映画の七人の侍と言う映画があったが、
その中で、農村を守ると言う金にならない命がけの仕事を引き受ける
腕の良い浪人を集めるのに四苦八苦すると言うくだりがあるが、
まさに、今回の人選は、そんな感じで、どうにもこうにも、
僕の考えていた給料価格で、これはと言う人材が、見つからなかった。

だんだん、僕も、疲れてきて、最後の方は、なかば諦めかけていた。
そんな中で、あるヨーロッパ人の面接を行った。 
彼の履歴書を見ると、過去の経歴は、文句なしで、
彼がこの仕事を引き受けてくれれば、僕の密命をうけて充分ヨーロッパで
暗躍してくれそうな感じだ。 ただ、予想通り、彼の現在の収入は、
既にかなり高く、ちょっと僕の予算では、手が出そうになかった。

面接の時間を無駄にするのは、お互いの為でないと思い、
僕は、簡単に仕事の説明をした後に、単刀直入に切り出した。

”仕事は、説明したとおりだが、はっきり言って、僕の今の予算では、
君の現在の収入以上の給料を払う事ができない。 

だから、君が、より高い収入を求めているのだとするならば、
この仕事は、君の求めているものではない。

ただ、僕は、この業界で20年間生き抜いてきたので、
この業界の中で僕を知らないものはいない。 

もしも君が、僕と一緒に3年間働くつもりがあるのであれば、
僕は、君を全ての仕事の機会に連れて行く。
ビル ゲイツでもスティーブ ジョブスでも、
君が、考えうる全ての人々に会うことが出来る。

そこで良い仕事をして、彼らの印象に残れば、3年後に、
君は、僕の元を離れて、どこにでも好きなところに君を売り込む事ができる。

僕と一緒にいる3年間を、全世界に君自身を売り込む期間として
考えられるのであれば、この仕事は、
君にとって最高のチャンスになると思う。”と、僕は、彼に伝えた。

金は儲からないとはっきり伝えたところで、彼は、笑い出してしまった。
そして、彼は、僕の話を聞き終わると、笑いながら、頷いて、
”貴方は、面白い人ですね。”と言って、右手を差し出してきた。

僕も照れ笑いをしながら、右手を差し出して、握手をした。
これで、仲間が、一人増えた。
彼は、8月から、僕の所で働くことになる。 
半年間は、ニューヨークにおいて、僕の所でみっちり基礎を叩き込んで、
来年早々にでも、彼をロンドンに送り出すつもりだ。

彼を送り出し、僕は、自分の部屋に戻った。
昔、彼女が、僕に言った事を思い出した。
”世の中の人は、貴方が思うほど、頭は悪くない。

貴方が、うまく誤魔化そうと思っても、
相手は、貴方が思うほど、そんなに馬鹿ではない。 

世の中に頭の悪い人なんていないし、
貴方が思っているほど、あなた自身も頭が良いわけではない。

だから、人には、本心を伝えた方がよい。
下手な小細工をするより、その方が、真意が通じる事が多い。
貴方は、自分が思っているほど賢いわけではないし、
世の中の人は、貴方が思っているほど、頭が悪いわけではないから。”

彼女らしい、言葉だと思った。
下手な小細工をせず、正面から本心でぶつかる。。。
僕は、机で微笑みかける彼女の写真を手にとって、それを指で撫でてみた。
僕は、まだここで潰れるわけには、いかない。。



2007年07月14日  死者と生きる

相変わらず、僕のメインの仕事は、厳しい状況が、続いている。
6月までに最期のドミノを倒さないと、
年内に目標を達成する事ができないのだが、
相変わらず最期のドミノは、びくともしない。

もう7月も後半に入っているし、ヨーロッパの夏休みは、
長いので、今状況が開けないという事は、秋までも状況が膠着するという事だ。

最期まで決して諦めないけれど、状況は、ますます厳しくなっているので、
最悪の場合の奥の手もそろそろ考えなければならない。

前にも日記で書いたけれど、最悪の場合は、会社を二つに分け、
生き残って欲しい人達を一方の会社に移し、
僕は、僕を含め死んでも構わない数人だけを連れて、
もう一社の会社に残り、その会社は、捨て駒になる。

捨て駒になる会社は、ターゲットに対して、捨て身の訴訟を展開し、
会社がバラバラになるまで闘い続け、頃合いを見つけて和解をして、
将来をもう一方の会社に託す。

ただ誰も訴訟をかけてくるような所と真剣に商売をしようとは、
しないから、この捨て駒の会社は、ある時点で切り捨てられ、
そこに残った社員も切り捨てられる会社と同じ運命をたどる事になる。

僕は、もう十分働いたし、十分生きて来たつもりなので、
いつでも、捨て駒になる心の準備はできている。

もう、十分、生きたし、十分、楽しんだから。

ただ、今、頑張っている社員全員は、皆で、
窮地を乗り越えてともに成功をする事を望んでいるし、信じているから、
捨て駒を使って仲間を犠牲にしてまで掴んだ成功を、
潔しとしないだろう事も理解している。

だから、最期の最期まで、頑張りたいと思っている。

その最期の最期を見極めるのが、大将の僕の役目だ。

その時が来るまで、皆が動揺をしないように、
仕事に集中できるように、泰然自若としているのが、僕の仕事だ。

それまでは、花に水をやり、朝日に手を合わせ天を敬い人を愛したい。

来週の月曜日から木曜日まで、日本に出かける事になった。 
急な仕事で、断る訳にも行かず、他の仕事が
アメリカでも立て込んでいるので、2泊3日の短い旅になりそうだ。

そしてアメリカに帰って来て、こちらの仕事をこなしてから、
僕は、8月にまた日本に行く事になっている。

仕事がメインなのだが、幾つか個人的な用事も入っている。
それは、墓の手入れだ。
自分の親族の墓の手入れは当然だが、
僕には、他にも守らないと行けない墓が幾つかある。

僕が、まだ日本に住んでいる頃に、一緒に音楽をやっていた彼女の事は、
昔の日記で書いたので、僕の古いマイミクさんは、
その事を覚えていると思うが、彼女は、
アメリカ兵と日本女性の間にできた私生児で、
両親に捨てられた事から、全く身寄りが、なかった。

彼女が死んでから、暫くは、僕は、彼女の遺骨と一緒に暮らしていたが、
時間が経ち、気持の整理が尽き始めた頃に、
彼女の墓を作って、そこに彼女の遺骨を埋葬した。
僕が、彼女の墓を守らなければ、彼女は、無縁仏になってしまう。

だから、僕は、定期的に日本に帰って、墓の管理をしなければならない。
昔、占い師に、僕は、墓守の相だと言われた事がある。 
その年老いた占い師は、”貴方が、アタシの息子だったら、
アタシは、さぞかし安心だったのに。”と
意味深な事を言って笑っていたのを覚えている。

当時は、僕も若くて意味が判らなかったけれど、
今にして思えば、”なるほどね。”と思わず、
笑って頷いてしまう自分がいる。。。

8月は、自分の仕事の他に、墓守としての仕事が色々立て込んでいる。
楽しみは、その時に、浜松で仕事が入ったので、初めて静岡県に行ってみる事だ。
仕事で新幹線に乗る時に、通過した事はあるけれど、下車をした事がなかった。

富士山も近いし、前から、行ってみたいと思っていた所だった。
折角だから、仕事の後で、時間を取って、街を訪れてみようと思っている。

8月は、僕に取っては、死んだ者を想い、死んだ者と生きる月だ。 
お盆も近いし、日本の風景独特の柔らかい山肌を眺めながら、
逝ってしまった人を思い浮かべたい。 
全ての逝ってしまった人達に愛情と敬意を表して。



2007年07月16日 キューバ リバー

今日も昨日同様、過ごし易い夏日和になった。
僕は、土曜日を殆ど家のプールサイドで過ごした。
ジムで2時間汗を流した後に、そのままプールに出かけた。 
小脇に、雑誌とiPodと赤ワインで作ったサングリアを入れた
ピッチャーを持って、プールサイドの特等席を占拠して、
Peter Wolfのご機嫌な音楽をバックに日が暮れるまでプールで過ごした。

おかげで、黒豚さんは、赤豚さんになってしまった。。。
でも、明日から日本に仕事にでかけ、おそらく1週間は、
眠る事ができないだろうから、
プールサイドでゆっくりできて良かったと思う。

今日は、日曜日だったので、朝の10時にいつも通りに、
僕のトレーナーが家にやって来た。 
彼女も何処かのプールで過ごしたようで、
すっかり日焼けをしていて、ジムでは、すっかり親豚、子豚のようだった。

彼女は、最近、ユダヤ人の彼氏と別れたようで、
ジムの最中に、元カレの悪口を色々聞かされた。

こっちは、運動をしながらなので、青息吐息で彼女の話を聞いていたのだが、
たまに、”アタシの話、聞いてるの?”と強い口調で問いつめられ、
僕は、タジタジになってしまった。

どうして僕は、どんな状況でも女の人に弱いのだろう?
彼女は、僕に雇われているトレーナなのに、
僕はジムの時間に一生懸命運動をしながら、
彼女の失恋話を聞いていないと怒られている。。。

でも、これが僕の人生だからしょうがない。。(笑)
トレーニングが終わり、僕はシャワーを浴びて、
友達と待ち合わせをしていたユニオン スクゥエアに出かけた。

5時の待ち合わせだったが、友達が、なかなか現れないので、
僕は、ユニオン スクゥエアにある
Virgin Music Sotreに行き、時間を潰していた。

友達は、5時半過ぎにようやく現れた。 
友達の話を聞き、相談に乗った。 

僕の古くからの友達で、なんとか自分の状況を打開しようとして、
もっと自分には、高みがあると信じて、簡単な道に安住せずに、
敢えていばらの道を選んだ友達だ。

でも、いばらの道は、苦労を伴う道だけれども、
この友達は、今、その苦労に押しつぶされようとしている。

”君は、そんなに簡単にいばらの道を歩けると思っていたのかい?”と
正論を吐くのは、簡単だ。 
でも、正論を吐くだけなら、こういった人達を救う事はできない。

甘ったれた人を突き放す事も大事だけれど、
それでは、強い人しか生き残る事ができない。

僕は、その人の為に自分ができる事を一生懸命考えている。
自分の頭の中で、”こんな事には関わらない方が良い。”と言う声が、
聞こえて来る。 きっと、ここで僕が、
関わる事は、僕にとっては損になるだろう。
僕は、自分の心の声に従うべきだ。

ただ、仮に、友人を突き放してこの場から去って、
無駄な支出を避けたとしても、
僕に取って一体どれだけの意味があるのだろう?と考えた。。

この友達を見捨てたという気持を、背負って生きるのと、
この友人の問題に巻き込まれ、試行錯誤をして、
結局自分の身銭を切って損をしただけだったと自分を笑って終わるのと、
どちらが、僕らしい生き方だろうかと、考え続けた。。

次の瞬間には、その友達を何とか助けようとする自分がいた。。
自分のメインの仕事のドミノも倒せないでいるのに、
どう考えてもメリットのない他人の問題に首を突っ込んでいる自分がいた。。

その友達と別れ、僕は、一人で車を飛ばして家に帰った。
家の酒が切れていたので、残っていた
ジャマイカ ラムとコーラオでキューバ リバーを作った。

キューバ リバーを呑みながら、もう一度、考えた。。
この仕事は、絶対に損をする。 どう考えても分が悪い。。。
このまま立ち去った方が、きっと利口だろう。。。
何度考えてもそう思った。
でもここで、友達を見捨てて自分の小銭を守った所で、
何になるのだろうか?とも思った。

僕の人生って何なんだろう?と考えた。。
金を貯めてそれなりに恵まれた人生を歩く事?
それとも、波瀾万丈でも自分の好きな人や、周りの人の為に生きる事?
でも、今度の話は、分が悪すぎる。。。 どう考えても勝ち目が無い。。

結局、ラムのボトルが空になり、
僕は、まだ酔えない頭で色々と考え続けた。 
そして、結論を出した。。

僕は、人の為に生きよう。 それが、僕の答えだった。
今度の話は、どう考えても無茶だ。 
でも、最期にこれから逃げて現状を守っても、
最期にこの話に関わって七転八倒して全てを失って死んだとしても、
僕の人生は、余り変わらないような気がした。

だったら、格好が悪くても、最期まで悪あがきをしてみよう。 
人の幸せの為に。。 それが、僕の今日の結論だった。
失敗したら、死ぬ直前に、
今日呑んだキューバ リバーのせいにすれば良い。そう思った。。。



2007年07月19日  東京

東京に来てから、何回目かの朝を迎えた。。
ニューヨークを発って、まだ2日しか過ぎていないのだが、
もうずっと東京にいるような気もするし、
まだ一日もいないような気もする。

ただ明け方になると、窓を開けて、曇り空を眺めながら、
煙草をふかしている。濃い目のコーヒーを入れ、下界を見渡す。

明け方の東京は、ほんのわずかな時間だけ静寂に包まれている。 
今にも泣き出しそうな曇り空の中に、東京タワーは、
半分埋もれており、僕は、どうしようもない寂しさに包まれる。

昨日、僕の彼女の従兄弟が死んだらしい。
彼は、体の筋肉が溶けていく奇病で、もう長い間病院に入っていた。 
僕は、彼女と従兄弟を何度か見舞った事がある。

24歳の若者なのに、病院の外に出た事がなかった。 
恋をしたこともなかった。
病気が進行すると、使えるのは、わずかに右手の指と目のまわりになった。
彼とは、彼の右手が操るキーボードで会話をした。

体は動かす事ができなかったが、頭は、しっかりとしていて、
よくキーボードを通じて冗談を言い合った。 陽気な若者だった。

ふとした瞬間に、”早く死にたい。”と
キーボードにメッセージを打ち込み、
祈るような、すがるようなまなざしで、
彼女を見つめていた彼のことを思い出した。

彼の父親は、ワールド トレード センターで働いていた。
911のテロでビルが倒壊した時に、彼の父親は、
ビルの中におり、二度と帰ってくる事はなかった。

僕は、僕の友達を探し、彼女は、彼女の叔父さんを探して、
イーストサイドの死体確認所に消息を尋ね、手がかりを必死で探した。
しかし、彼女は叔父さんの消息を探す事はできなかったし、
僕は、友達の手がかりを見つけることが出来なかった。

彼は、自分の父親を911で亡くしたあとも、
病院のベッドで生活を続けていた。 
キーボードを通してメッセージを送るだけの毎日を送っていた。

僕は、彼女が死んだ後、彼を見舞う事もなく、
彼の事を考える事は、なかった。

僕にとっては、彼女をなくしたことが、まだ何よりも大きく、
その他の事を考える余裕がなかった。

最愛の彼女が死んで5ヶ月がたとうとしている昨日、
彼女の従兄弟が、この世を去ったらしい。 
死ぬ際に、彼は、キーボードにメッセージを入れたのだろうか?

今にも泣き出しそうな東京の曇り空を見つめながら、
ふと、僕は、彼のキーボードを思った。

僕は、明日の飛行機でサンフランシスコに行き、
仕事をすませてその日のうちに、ニューヨークに帰る。




2007年07月23日  不思議な気持 / 僕は、そろそろ死ぬのかな?

今日も昨日と同じように大変穏やかな一日だった。
気温は、昨日よりも少し高かったかもしれない。

僕は、いつも通り、2時間ジムで汗を流した後に、部屋の掃除をしてた。 
友達から電話があり、引っ越しの手伝いをして欲しいと言われたので、
彼女の引っ越しを助けにいく事にした。

シャワーを浴びて用意をすると、
ベランダから大きな海賊船のような船が浮かんでいるのを見つけた。
思わず、カメラを取ってベランダに出てビデオを取った。

海賊船のような帆船に乗っている人たちが、
僕に向かって笑って手を振っていた。 
僕もビデオを取りながら、手を振った。

この船は、去年も見た事がある。 
去年は、この船を彼女と一緒に眺めた事を思い出した。 
その時の彼女の言葉、彼女の笑顔が、僕の目の中に鮮やかに蘇った。。。

”そうだ、、君と見たんだよね。。。”と僕は、彼女に語りかけた。

きっとあの船に乗っている人たちには、
今年は、手を降っているのが二人ではなく、一人である事なんて、
きっと気がつかないだろう。 他人に取っては、
記憶にすら残っていない事でも、
僕のちっぽけの人生には、大きな思い出だ。。

去年は、ここで彼女と一緒に手を振っていた。。。
どうしようもなく哀しくなった。
いつもそばにいたかったのに。。
だれよりも君の笑顔が好きだったのに。。
君と一緒に、人生を豊かなものにしたかったのに。。

一緒に歳を取りたかったのに。。
君と一緒に歩いていきたかったのに。。
ずっと君を見つめていたかったのに。。
君を幸せにしたかったのに。。
君には、死んで欲しくなかったのに。。
どうしようもない気持を抱え、僕は、
タバコを吸い、友達の家に向かった。
夜遅くまで引っ越しの準備をした。 
段ボールを作り、段ボールに荷物を詰めた。

手伝いが、終わり、友達とイーストビレッジの馴染みの
日本レストランに遅い夕食を食べにいった。
食事をしていると、
突然、誰かに、”Tosh、久しぶり!”と声をかけられた。 
声の方向を見ると、
10年近く会っていなかった古い友達が、二人立っていた。。

”久しぶりだね。十年ぶり?”と二人と抱き合い昔話をした。。

僕と非常に近い関係の人だったけど、訳があって、別々の道を歩む事になり、
きっと死ぬまで再会する事は無いだろうと思っていた人達だった。。

昔の事は、水に流して、僕らは、単に再会を祝って抱き合った。
彼らを見送って、僕は、ふと不思議な気持になった。

この1週間、毎日、偶然、昔の友人に会う事が続いている。 
成田空港であった古い友人、飛行機の中でばったり出会った古い友人、
そして、今日のレストランでばったりあった
十年以上あっていなかった友達。。。
一度に沢山の古い友達と偶然出くわした。。

皆、気まずい雰囲気で別れたり、あの時に言いたい事があったのに、
それを言えずに別れた人たちだった。。そして偶然再会した全ての人と、
過去を水に流して、
”ごめんね。 ありがとう。”と言いあう事ができた。

引っ越しを手伝った友達と別れ、自分の家に帰る車の中で、
僕は、この一週間の不思議な出来事について考え続けていた。。

これってどういう事なのだろう?
なぜ、こんなに想いを残した人達と
急にこんなに続けざまに再会したのだろう。。
本当に不思議な気持だった。。。

僕は、もうすぐ死ぬのかな?とそう思った。自分の人生を終える前に、
想いを残した人達と再会の機会を神様がくれたのかな?と思った。

もう一度あって、過去を水に流して、
素直にあやまり、ありがとうと言う為に、
神様が、僕にこれらの人達に再会させてくれたのだろうか?

もう僕には、思い残す事は、ないので、いつ死んでも構わないけれど、
何故か不思議な気持がした。

神様が、この機会をくれたのならば、ちゃんと全てを水に流し、
彼らに当時の事を謝り、
彼らの感謝の気持をちゃんと伝えたいと思った。




2007年07月24日  人に優しくするという事。

天気のよかった週末とは、うってかわって、
今日は、朝から雨模様だった。
強い雨が降る灰色の空の下、渋滞をぬって、
僕は、仕事場に向けて車を走らせた。 
暫く走ると、渋滞にはまってしまい、僕は、
車の中から街を見回した。 
ワイパーが、忙しげにフロントグラスの雨を吹き飛ばしていた。
色々な傘をさした人々が、雨を避けるように早足で行き交っていた。

僕は、それらをぼーっと見つめながら、考え事をしていた。
僕の仕事は、相変わらず厳しい状態が、続いている。次の取締役会は、
9月の上旬にアムステルダムで行われる事が、既に決まっている。
8月中に進展が無ければ、僕は、会社を二つに割るつもりでいる。
辛い決断だが、皆の生活を守る為には、それしかない。

心の中では、あと一ヶ月の間に奇跡が起きる事を期待しているけれど、
世の中が、そんなに甘くない事も僕は、良く知っている。

仕事場に着き、いくつかの会議をこなし、
午後になって、僕は、ハーレムにあるクリントン財団を訪れた。
クリントン財団は、クリントン米大統領が、大統領任期終了後に、
始めた慈善団体だ。 
僕は、クリントンのアーカンソー時代からの知り合いが、
何人かいるので、彼女のインターンシップ(研修)先として
ここで彼女の面倒を見てもらった事がある。

久しぶりに、財団のオフィスを訪れた。
クリントン元大統領を始め、財団の多くの人々は、
アフリカへの食料援助のためアフリカに行っており、
ハーレムのオフィスは、閑散としていた。

僕は、担当者と簡単な打ち合わせをしながら、
オフィスの窓から、ハーレムの街並を見渡した。
見渡しながら、ここに初めて彼女を連れて来たときの事を思い出した。

ここでは、人権問題、エイズ、食料援助、
医療援助等の活動を幅広く行っているが、
彼女が、一番興味を持っていたのが、食料援助プログラムだった。

毎晩研修が終わる頃に、
僕は、車でハーレムまで彼女を迎えに行ったものだった。 
帰りの車の中で、彼女は、僕に、その日あった事を全て説明し、
クリントン元大統領に会ったときなどは、
子供のように興奮して僕に話をしてくれた。

そんな彼女の横顔が、
雨に濡れた財団のオフィスの窓に浮かんでは、消えた。。

彼女との約束を僕は、まだ守れていない。 
彼女の名前がついた財団を無事に独り立ちさせなければいけない。 
僕が、息絶えた後も彼女の財団が、
活動していけるように手はずを整えなければならない。

去年のクリスマスに彼女と約束をした。 

彼女は、子供の頃に事件に巻き込まれて
被害者になった辛い経験を持ち、
両親の離婚や、複雑な家庭環境などから、
永遠のものなど信じないと言っていた。

僕は、その言葉を覚えていたので、僕は、
彼女に、”永遠のものって、実は、あるんだよ。”と言った。 
そして、彼女の名前のついた財団が、僕ら二人が死んだ後も、
活動を続けていく事で、彼女の夢は、
永遠に生き続けるんだと説明をした。

僕は、あの時の彼女の涙を忘れない。。
だから彼女との約束を守らなければならない。 
そうじゃないと、死んで彼女に再会した時に、
”やっぱり、永遠のものなんてなかったじゃない。”と
いわれてしまうから。。

彼女の事を頭の片隅で考えながら、
僕は、財団での打ち合わせを続けた。
打ち合わせが終わり、帰ろうとすると、財団の担当者の一人が、
突然思い出したように彼女の思い出話を始めた。 
その担当者は、彼女と歳が近かった事もあり、
仕事以外でも食事に行ったり、
彼女と付き合いがあったようだった。

その担当者が、ひとしきり彼女の思い出話をした後に、
”そういえば、彼女は、いつも心に傷を持ち、
哀しい想いをした人は、
その分だけ人に優しくできる。と言っていましたね。”
と僕に語りかけた。

彼女らしい言葉だなと思った。
僕は、財団の建物を後にして、雨のハーレムを歩いた。

心に傷を持ち、哀しい想いをした人は、その分だけ他人に優しくできる。。
僕は、彼女の言葉を、凍えそうな胸の中に抱きしめた。
僕は、歩き続ける。。
僕は、何処まで行けるのだろう?
そして、何処に向かっているのだろう?
その答えは、僕が死ぬときまでわからないけれど、
僕は、その時までひたすら歩き続けなければいけない。
君とまた遇うその日まで。



2007年07月31日   自分の夢。。 / 夢のない人々

昨日は、仕事でヘロヘロになったお陰で、久しぶりに良く眠れた。

最近は、カーテンを開けたまま寝ているので、
自然に朝日が昇ると、目が醒めるようになっている。 

僕の寝室は、東側に窓があり、丁度日が昇ると、
川面に照らされた朝日の反射で、天井に波模様が浮かび上がるので、
その波模様が、キラキラ光る。。。
今朝もその光で目を醒ました。
猫のようにシーツの中で大きく背伸びをしてベッドから起き上がった。

いつもどおりにジムでトレーニングをして、
シャワーを浴び、背広に着替えた。
今夜は、日本の会社の取締役会にビデオ会議で参加するので、
日本人受けするようにスーツを着なければいけない。 

濃紺のスーツなんて滅多に着る機会がないので、
クローゼットの奥の方に下がっていたスーツを取り出して着てみた。

ズボンが入らなかったらどうしよう?と一瞬、頭に浮かんだけれど、
幸いにも、まだそこまでは、黒豚さんでは、なかったようだ。。

仕事場に行くと、既に、仕事関係の人がいて、僕のことを待っていた。 
日本からの仕事関係のお客さんだった。

最近は、日本の会社でも、必ずしもスーツにネクタイではないので、
たまには、ラフな格好で来る人もいるけれど、今日のお客さん達は、
全員、ダークスーツにネクタイだったので、やっぱり、
僕も無理して背広を着てきて良かったなと、胸を撫で下ろした。

午前中は、その人たちと、仕事の打ち合わせをした。
年配の人と、中年の人と、若い人たちのグループで、
仕事の合間にその人たちのやり取りを聞いていると、
なぜか面白いなあと思った。 

やっぱり、日本の会社の独特なカルチャーを
目の当たりで見せられているようで、
僕としては、仕事の話よりも、そちらの方が正直興味深かった。

午前中の仕事が終わり、僕はその人たちを昼食に連れ出した。 
半日一緒に過ごした事もあり、昼を食べる頃には、
彼らも僕に慣れてきたようで色々と
仕事以外の話しをするようになってきた。

特に若い人たちから見ると、僕は、不思議な存在のようで、
いつからこんな仕事をしているのか?とか、
いつから外国で働いているのか?
いつからニューヨークにいるのか?今まで他には、
どんな仕事をしてきたのか?とか、矢継ぎ早に質問攻めにあった。

レールに乗って、その社会の中で上を目指している若い人達には、
レールを外れてしまった一匹狼の僕が、不思議な存在に映ったようだった。

僕は、微笑みながら彼らの話の聞き役にまわって、
自分の話は、あまりしなかった。

レールに乗っていようが、レールを外れていようが、
大きな会社の一員だろうが、自分ひとりで働いていようが、
日本で働いていようが、外国で働いていようが、それは、生きていくうえでは、
大した違いにはならないと、僕は常々考えているが、
その話しはしなかった。 

年寄りが若い人にそんな話しをすると、
説教臭く聞こえて格好悪いと思ったからだ。(笑)
悔いのない人生を送れるかどうかが、
僕にとっては、唯一のポイントなのだ。

僕にとっての、悔いのない人生とは、自分の夢のために命をかけて、
最後まで全力で努力を続けると言う事だ。 

だから、僕にとっては、夢さえ見つかれば、
あとは、愚直に最後まで諦めずに努力を続ければ、
悔いのない人生になるわけだ。他の人にとっては、人生は、もっと
複雑なものかもしれないが、
僕にとっては人生とはそれほど単純な事なのだ。

だから、若い時に、自分が、命を張れる夢を
どうやって見つけるか?と言うことが、
目標を定めるにあたって一番悩むところだと思う。 

少なくとも、僕は自分が若い頃に、
自分が何をすべきかがわからずに、かなり悩んだ事がある。

その時に、悩みぬいた末に、僕がたどり着いた結論は、
自分の夢が見つかるまでは、
自分の周りにいる人を幸せにする為に、尽くすと言う事だった。

周りの人の事を考えて、その人たちの幸せのために、
全力で努力を続けていく過程で、新たな発見や出会いがあり、
それが自分の夢に繋がったり、周りの人たちの夢が、
いつの間にか自分の夢になったりするものだと言うのが、
僕が経験から学んだ事だ。

天を敬い、人を愛する。。 その中で、自分の夢が、広がっていき、
自分が命をかけられるものが、見えてくるのではないかと思う。

僕は、相変らずレールに乗っているか、
レールから外れているかと言う視点で話しをしている
日本から来た人たちの話を聞きながら、
ただ微笑んで相槌を打ち続けた。

相槌を打ちながら、こういう気持ちを感じてしまう自体、
自分が、年老いたと言う事なのかな?と思い、
ちょっと自分が恥かしくなり、
周りに気付かれないように照れ笑いをし、頭を掻いた。

天敬愛人。 

他人を愛する事で、自分を見つめなおす事ができる。 
本来の、天敬愛人とは、意味が異なるけれど、
それが、44年生きてきた、僕の生きざまだ。

生きている間に自分の生きざまを確信する事ができると言うことは、
ある意味では、幸せなのかな。。 とふと思った。



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